️日だまりの扇山 ~ 「犬目の兵助」を知る
2003/1/12

甲府までは行かないけど、高尾で京王線から乗り換え手軽にいけるJR中央線沿線の山は、私の日帰り登山に最適。最近はホームグラウンドになっている。片道の交通費が1000円以下で、駅から歩けるというのも魅力。雨男の私だから、いつも富士山が見えるとは限らないが。

昨年11月に雲取山に登って以来です。体がなまっている。年末年始と飲み過ぎ食べ過ぎのきらいもあるし、贅肉はつかないまでも体力の維持は厳しい。短い行程だったのに、太股の裏が重い感じとは、情けない。あーあ。

大月のひとつ手前、鳥沢駅から北に向かって登る扇山に出かける。1000mを少し超える程度の山なので大したことはない。しかも、登山道は南面だし、雪に悩まされることもない。それに、寒さもゆるんで、気持ちのいい山登りになる。

中央自動車道の下をくぐって登ること1時間。やっと大月カントリークラブの脇を抜けて登山口へ。山屋の天敵、ゴルフ場、私はゴルフは一切しないが、これもいざと言うときには農地転用が出来るわけだし、目の敵にしても仕方ない。万一に備えて、変な農薬だけは使わないでほしいなあ。何しろ山登りに比べたら、死亡率の極めて高い危険なスポーツ、ゴルフ。怖くてやれません(お金もないし)。

やっぱり、トレーニング不足、一人も先行登山者を追い抜かなかったのは初めてかな。いつもならゴボウ抜きなのに。まあ、そんな年でもなし、ゆったりと山を楽しむのが分相応ということか。

稜線に出ると、さすがに雪がべっとりと着いている。富士山は大きく見えるのだが、お昼近くになると、光線の具合で、どうしてもぼやけてしまう。早起きして朝のうちなら綺麗なんだろうけど。山頂は広くて、この季節にしては風も弱く快適。久しぶりに、自然のなかでの開放感があります。

下山は、同じく南側の中央線方面に、梁川駅か四方津駅に出ようと思って、東南方向に降りる。1時間少しで車道。そこは、君恋温泉という、気恥ずかしい名前の鄙びた温泉(かな?)。入らなかったのでその辺は不明。少し歩くと犬目という集落。山のなかのカーブの多い道が、そこで突然、真っ直ぐに広くなる。ああ、これは宿場町のイメージ。そう、やはり、旧甲州街道の犬目宿ということだった。

甲州街道沿いの幡ヶ谷に住んでいる私は、甲州街道すなわち国道20号線と思っていたが、旧甲州街道はこの辺りでは山の中。中央線も20号線も桂川の谷沿いなのに、旧甲州街道はずっと山のほうなのだ。中央自動車道は山腹を通っているが、それよりもさらに高く、河岸段丘の上に旧道があるということだ。そう言えば、上野原の市街地は中央線の駅からずっと上にあるので、不思議だなあと思っていた。

犬目宿、家並みの一角にあったひとつの看板に 私の目は釘付けになってしまった。そこには、「犬目の兵助の生家」というようなことが…。何のことかと、読み進むうち、これは大変な人物らしいと…

いわゆる甲州一揆の首謀者とされているのが、この犬目の兵助ということらしい。天保7(1836)年の大飢饉の際、地方奉行の圧政への抗議活動を行ったということだ。農民3万人の暴動にまで発展した大事件だったらしい。当然、死罪は覚悟、離縁状を書いて妻子と別れて決起に及んだという。

しかし、この兵助、一揆の鎮圧のあと死罪とならなかったというところが、とてつもない。何と、以後30年にも及ぶ逃亡を果たす。甲斐から信濃へ、北陸に出て西に向かい山陰へ。さらに瀬戸内から四国へ、奈良などを経て伊勢。驚くべきは、遂に犬目村に戻って肉親との再会を果たし、その年に70歳で死去。それが慶応3(1867)年、もはや翌年は明治維新。何という人生。

この事件、大塩平八郎などにも大きな影響を与えたということで、さもありなん。短い紹介文を読んだだけでも、この人物の桁外れさが判る。義に生きて死ぬのはではなく、生き延びるという強かさ。自分の価値観に照らして、とてもとても共感してしまった私。

(追記) 何年か後、思い出して、犬目の兵助について書かれた本を読んだ。

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