️大峰山脈・弥山 ~ 深田センセイも困りもの?
2003/8/23

雨にたたられたお盆休み後半、山登りの目論見が見事に挫折、一週間の延期を余儀なくされることに。その間に次男は三泊四日の大峰山合宿、勉強もあるようだがメインは大峰登山、昔なら小学校の林間学舎でしていたことを、今は塾が肩代わりしているような…。近くの個人(親子)経営の教室、生徒もごく少人数なので、こんなことも出来るのかな。長男が私立中学に合格したときに、先生からドカンと「広辞苑」のプレゼントを貰ったし、次男のときは月謝も大幅値下げ、別に兄弟割引という訳ではなく、理由は家のローンが済んだのでというからふるっている。

子供に触発されたわけではないが、目的地は大峰山。次男が登った山上ヶ岳ではなく、そのずっと南の弥山(みせん)だ。弥山の南、30分も行けば八経ヶ岳(はっきょうがたけ)、それが近畿の最高峰(1915m)になる。

遠目では、手前の弥山のほうが高く見える。距離の問題もあるし、山の大きさが全然違う。並んでいると、八経ヶ岳は弥山のオマケのよう。
 したがって、山中でも八経ヶ岳の名前はほとんど見当たらない。道標にしてから、あっちが弥山、こっちが山上ヶ岳という記載、弥山のついでに登るという感じか。いちおう山頂には、近畿の最高地点という標識が立っている。人も少なく、セルフタイマーで記念写真をパチリ。私にしては珍しく天気が良くて、人相の悪いサングラス姿で写っている。

いつものように早朝出発、5:00にはハンドルを握っていました。国道309号と言えば聞こえはいいが、すれ違いもままならない川迫川(こうせがわ)沿いの道を行者還トンネル西口まで登る。朝日に稲村ヶ岳が映えている。これは次男の大峰合宿で女の子たちが登った山、山上ヶ岳はいまだに女人禁制だから、麓の洞川(どろがわ)から、男の子と女の子は分かれて登山というのが林間学舎の定番だ。行程はほとんど同じ、標高はわずかに稲村ヶ岳が高く、小学生なら女の子のほうが体格がいいのと似ている。

先般の台風やお盆の長雨で地盤が緩んだのか、あちこちで崩落の跡があり、補修工事が行われている。その点やはり国道ということかな。登山口には同じように日帰りで弥山・八経ヶ岳を目指す人の車が並んでいる。まあまあ早い時間、7:00過ぎなので、駐車スペースには困らない。
 この道、国道に格上げされる前は、行者還林道と呼ばれていたように思う。生活道路としての意義は疑問だが、登山には極めて有用、昔なら山頂の弥山小屋で泊まるか、テント持参しか考えられなかったところだ。林道派の地味系ライダーたちの姿も多い。

大峰の山登りは樹木が多く、夏でも日差しがきついと感じることはない。裏を返せば、道中の展望はあまり望めないということ。最高峰、八経ヶ岳の山頂は、狭いが開けていて、東の大台ヶ原や、南へ熊野に続く奥駆道(おくがけみち)などが見通せる。次は、あの目を惹く大きな山、釈迦ヶ岳に登ろう。

弥山の山頂は八経ヶ岳と対照的、広々とした平坦地です。頂上の一角、樹林の中に弥山小屋があり、かなりの人数が収容できそうだ。鳥居をくぐって本当の山頂(1895m)に至ると、そこは天河奥宮、看板の文字が消失していて僅かな凸凹はあるものの判読不能。まあ、開山以来1300年以上だから、その程度では驚くに値しないが…。

新しいものでは、皇太子殿下行啓を記念する石柱、この日付を見ると、平成2年6月14日とある。と言うことは、たぶん雅子さまと一緒ではないなあ。梅雨時だけど、天気はどうだったんだろう。帰りに立ち寄った天川村の天河神社(大辯才天)にも同じ石柱があったから、彼も日帰り日程だったのか。随行の宮内庁職員にしても山登りまで付き合うのだったら体力が要ること。

暑い時期だし、時間もたっぷりあるので、ゆっくりと歩いて、登山口に戻ったのは15:00。この時間になると、河原では水遊びの人たちがいっぱい。ボートや浮き輪まで持ち込んで楽しめる安全なスポットも発見。車も停められるし、これは良さそう。地元の人しか知らない穴場かな。

今回、意外だったのは、思ったほど登山者が多くなかったこと。夏にはもっと高い山に向かうのだろう。このあたりが賑わうのは、紅葉の季節か。いわゆる百名山ハンターたちは、今ごろ中部山岳に出かけているのだろう。

ここも、深田久弥「日本百名山」の中に収められた山のひとつ。しかし、少し問題が…。

手許にある新装阪によれば、「91 大峰山(一九一五米)」のタイトルになっている。これが、誤解のもと。今回私が登った標高1915mの八経ヶ岳は、仏経ヶ岳や八剣山という別名があるものの、大峰山と呼ぶことはない。

地元奈良や大阪の人間が大峰山と言うのは、山上ヶ岳(1719m)のこと、あるいは、麓の洞川や稲村ヶ岳を含む地域、さらには吉野から熊野に至る山脈全般を総称する場合だ。ところが、中年登山者のバイブルと化した著作の見出しだと、大峰山=1915m=八経ヶ岳という誤解を招いてしまう。現に、八経ヶ岳(大峰山)、日本100名山と記載したとんでもない地図さえ出ている始末。ちなみに深田氏の顰に倣って制定された日本300名山には山上ヶ岳がリストアップされているから、話はややこしい。

言ってみれば、東京に移り住んだ福井県人のおかげで、奈良県人が迷惑しているという図式かな。深田氏の名誉のために付言すると、本文の記述に誤りがあるわけではなく、「いま、多数の人が大峰詣りとして登山するのは、その中の山上ヶ岳であって、………(山上ヶ岳を)大峰山の代表とみなしていいだろう」となっており、どこにも八経ヶ岳を大峰山と同一視する表現はないし、本文に添えられた略地図には山上ヶ岳(大峰山)と表示されている。

改めてこの章を読むと、役ノ小角(えんのおづぬ)の開山に始まる歴史的背景の記述や、同行の人からの説明の受け売りと思われる部分が多く、自身の山での印象や感動が読み手に伝わってこない。100編の短い文章がいずれも秀作なんて無理なことだから仕方ないにしても、この章は何となく精彩を欠き100名山の数を揃えるために、後年に付け足したような感さえある。

文中に案内人として実名が挙がっている仲西政一郎氏は、今も存命かどうか知らないが、大阪府堺市在住の人。高校生のころ、この人が書いた近畿の山のガイドブックを、よく使っていた。私の叔母の家のご近所で、叔母のご主人が近くの銭湯でよく顔を合わせたらしい。「しょっちゅう山登ったはりまんねんなあ。そんな、おもろいでっか」なんて話していたそうな。登山界の重鎮も普通の人からすれば、ただの酔狂なオヤジというところ。

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