とんだ還暦 ~ 今ごろ1トン爆弾?
2003/10/10

朝、近鉄奈良線の快速急行に乗っていると、「来る10月13日午前中、爆弾撤去作業のため、上本町駅は全て通過となり、駅構内への立ち入りは禁止となります」なんて、車内アナウンスがあった。三連休前の沿線行楽地の宣伝かと思った私はびっくり。「へえー、まだ残っているんだ!」

これは、近鉄大阪線のターミナル、上本町駅近くのマンション建設現場で発見された1トン爆弾(不発弾)のようだ。戦争末期には大阪に大空襲があり、甚大な被害があったが、その頃の忘れ物、もう60年近く前のものだ。

昭和の終わり頃、大阪ビジネスパーク(OBP)の高層ビル群の工事が進むに連れ、次々に地中の不発弾が発見された。その都度、私たちは信管抜取作業の間、オフィスを離れて避難したものだった。ホテルニューオータニの下にもあったし、富士通の下にもあった。

当時はまだ月2回の出勤だった土曜日、始業時間になってすぐに避難、撤去作業が終了して事務所に戻るとお昼のチャイムが。会社に爆弾避難のために出勤したというウソのようなこともあった。
 避難先は川向かいの大阪城公園ということが多かったが、そのころ出来た大阪城ホールに避難したこともあった。また、桜の季節、勤務時間中に花見というのもあったなあ。

このOBP地域で、不発弾が多く見つかったのには、第二寝屋川のデルタという地盤以外にも訳がある。戦前に陸軍砲兵工廠(こうしょう)という軍需施設があったため爆撃の標的となり、投下された1トン爆弾の量が半端じゃなかったからだ。最寄りの京橋駅近くには、京橋駅爆撃被災者慰霊碑がある。この大阪大空襲は終戦前日の8月14日のことだ。

私が子供のころの昭和30年代、このあたりには、まだ焼けただれた鉄骨がそのままに放置されていた。戦後間もない時期からずっと、屑鉄拾いを生業とする人たちが、立入禁止となっていた旧砲兵工廠跡に出没していたらしい。通称、「アパッチ」、市内の高齢の人なら知っている呼び名だ。小松左京「日本アパッチ族」、開高健「日本三文オペラ」は、この人たちの生態を描いた小説だ。

JR大阪環状線の大阪城公園と京橋の間には、線路の下を横切る人しか通れないアンダーパスがある。電車からは気づかないし、線路沿いの車道を歩いていても見落としそうな細い道だ。この向こう側には、アパッチの末裔かも知れない屑鉄屋があった(今もあるのかなあ)。

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