️ふるさとの富士 ~ 生誕の地、再訪
2004/3/7

関西では、お水取りが済めば春と昔から言われている。しかし、寒の戻りがやってきた。週末、私の住む奈良市でも、晴れていたと思えば突然の雪模様、ましてや山間部では。
 久しぶりの山登り、出かけたのは三重県境に近い額井岳(ぬかいだけ)、別名を大和富士、標高は816mなので里山の延長だが、山道歩きはずっと雪の上、山から麓に下り立ったときには吹雪の様相だった。

相当大勢の人が榛原駅で下車、こんなに山登りの人が降りる駅だったかなと思いいつつバス乗り場に向かうと、三峰山(みうねやま)方面行きのバスが出る時刻だった。こちらは近鉄が高見山と並べ宣伝している霧氷が見られる山、昔は尾根筋に山仕事の掘立て小屋があっただけなのに、今じゃ麓には青少年旅行村、掘立て小屋は避難小屋に変わっているらしい。

さすがに額井岳に行く登山者はゼロかと思うと、そんなことはない。麓のニュータウン、天満台方面へのバスに十数人近くの中高年登山者がある。彼らは天満台西2丁目で下車、怪訝な面持ちの人たちと別れ、私はひとつ先の天満台東2丁目まで。目指す方向は同じなのに、停留所が違うのは情報の差。案の定、住宅地を抜けて十八(いそは)神社への登りにかかるころ、向こうからゾロゾロとやって来たのはさっきバスを降りた人たち。
「じゅうはち神社への道はどっちですかね?」
「いそは神社ならこの先を折れて、行くんですよ」
「なんか、道が下りになって、おかし思いましたわ」

里に近い山で、道を間違うのは登り口と相場が決まっている。市販の登山地図にないエリアだと、国土地理院の25000分の1の地図が頼り、でも細かな道は載っていない。しかも測量年度が昔とくれば、人の住むところと山との境目あたりは一番変化が多いところだ。

で、私が利用したのが、近鉄の主要駅でタダでくれる「てくてくまっぷ」なるハイキングガイドのチラシ。これだと、イラストで目印が逐一記入されている上に、沿線の観光振興を目的にしているから、きっちりメンテナンスされている。一部を転載したが、詳しすぎるぐらいだ。本格的な登山のための地図ではないにせよ、登山口までの完璧なガイドになる。

実は、三峰山に向かう登山者に駅の人が配っていたのは、このマップのシリーズのコピー、あちらは年寄りが道に迷ってしまうと遭難騒ぎになりかねない登山コースなので、その予防策と見た。地図も磁石も持たない中高年登山者のグループ、何か起きたらどうなるんだろうと人ごとながら気になる。

十八神社からは昨日降った雪を踏みしめての登高、今日初めての登山者のようでヴァージンスノーに私の足跡がついていく。3cmほどのものだから歩くのに不自由はない。神社から1時間ほどで山頂、とても展望のいい山だ。南には室生火山群の山々、その多くは高校時代に登った山が見通せる。この山頂に人影はなく、お弁当を食べてのんびりしていると、件のグループが到着。喧噪はまっぴらと、額井岳から東に向かい、戒場山を経て戒長寺に下る。踏み跡もわずかな雪道は、滑りやすくて、何度かしたたか尻餅をつく羽目に。

風花の山麓を榛原方面に東海自然歩道を進むと、小さな尾根を越えるところに山部赤人の墓がある。これが本当に万葉歌人の墓かどうか、伝承の域を出ないようだが、近くには山辺という地名もあり、古びた五輪塔がいかにもそれらしい。墓のそばの石碑には、万葉集の歌が彫られていた。私は有名な「田子の浦…」ぐらいしか思い浮かばなかったが。

「あしひきの 山谷越えて 野づかさに 今は鳴くらむ 鶯の声」 ~ 万葉集・巻17

山部赤人が私のふるさとにゆかりの人なら、感慨も一入です。何と言っても、ここ宇陀郡榛原町は、私が小学校前まで過ごしたところなのだ。
 バスで榛原駅に戻ったあと、しばし伊勢街道沿いの宿場町を散策してみた。古い記憶に残っているのは、近くの神社で竈の焚き付けの杉の枯枝を拾い集めたこと、その前を流れる宇陀川で水遊びをしたことなど。

神社は墨坂神社という名前、昔は境内の境がはっきりせず裏手の山と一体になっていたような気がする。宇陀川にしても今は水量はわずか、でも立派な護岸があるから、大雨で堤防が決壊して二階に避難した子供のころの記憶はいまや昔話の類だろう。宇陀川は榛原の東で山に挟まれ川幅が狭くなるため、よく洪水が起きた。この川は東に向かい名張川となり、三重県をかすめ、さらに、木津川、淀川となって大阪湾に注ぐ川だ。

墨坂神社の前の橋を戻ると、私の生家のあたり、遠い記憶と本籍の番地を頼りに家並みのなかを進むと、こことおぼしき場所があった。ただ、そこには家屋はなく、駐車場となった空き地。もう半世紀近く前のことだもの。

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