️もう半分、まだ半分 ~ お誕生日のお葬式
2004/5/12

お昼にカミサンから電話がかかってきた。父親が長く入院しているだけに、仕事中の家からの電話はドキッとする。それは、親戚のおじいさんが亡くなったという知らせだった。

今日は私の53歳の誕生日、かつ20回目の結婚記念日、こりゃ花でも買って帰らなきゃと思っていた矢先のこと。父の叔父さんに当たる人、何と享年百歳。父親の家系は長生きの人が多いようだ。普段はつきあいの薄い間柄だけど、父親が行けないから、急遽お通夜に。百歳ということは、ほとんど今の私の倍の歳、想像もつかない。最近、自分がくたびれ気味だから余計に。

普通のお葬式だと、参列者に「御会葬御礼」と「粗供養」が配られるのですが、今日はもうひとつあって、「長寿 ○○○○ 百歳」という熨斗袋、中にはビール券。こんなのは初めてだ。まさに天寿ということか。会社帰りだから、取引先の不祝儀用に何セットも用意されているネクタイ、数珠、袱紗を借り出したのはいいが、式の最初の黙祷が終わったあと、目を開けてみると…。あれ、なんか変だ。式を司る人、御幣を振り回している。

そうだ、ここは天理教教会、ウチはいちおう仏教なので、親戚に天理教の人がいるとは露知らず、なんだか場違い、格好の悪いことになった。慌てて数珠はポケットにしまい、何喰わぬ顔。まあ、黙祷のときだから、誰も見ていないはず。

てんりきょう【天理教】
 神道十三派の一つ。大和の住人中山美伎(みき)が天保九年に天啓神示を受けたのに始まる。明治四一年に特立の許可をうける。親神天理王命の神意による世界一列陽気ぐらしを教旨とし、親神の鎮まる所をおじばといい、神座を甘露台と称し、御手振の行事をする。本部は奈良県天理市三島町。   -- 国語大辞典(新装版)小学館 1988 --

奈良県人なのだから、天理教信者が身内にいても不思議ではない。まあ「八百万の神の国」だから、ご勘弁いただくことにして。そういえば、会社の売店で求めた熨斗袋、「御香典」という印刷。ありゃりゃ。

天理教では通夜を遷霊祭と言うらしい。人の体は借り物、亡くなってお返しするという趣旨のようだ。祭主(神官)が二人、白装束と黒装束、白が現世で黒が来世の象徴か、式の中心には白から黒へ魂が移るという儀式がある。そのときには照明も暗転。死を、この世に生まれ変わるための出直しと捉えるようだ。焼香に相当するのが玉串奉献、これは神道も同様だが、こちらでは四拍手、玉串奉献の作法も私は不如意。あれあれ。

子供のころの記憶に、このおじいちゃんのことはかすかにあるが、100歳と53歳、こちらはまだまだ子供か。世間の常識もなくて、未だに失敗ばかり。

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