️知られざる音楽史 ~ R.シュトラウスとサリエーリ
2004/5/28

読み終えた「反音楽史」を図書館に返しに行ったとき、新着図書の棚に面白そうな音楽書が2冊並んでいた。もちろん、即、貸し出し。
 山田由美子「第三帝国のR.シュトラウス 音楽家の<喜劇的>闘争」
 水谷彰良「サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長」

「第三帝国のR.シュトラウス」、とっても興味深い本だった。私はシュトラウス愛好家ではないし、作品群の適切な評価ができる訳でもないが、これまで目にした書きものとはひと味違う。いわゆる音楽学者や評論家でなく、文学者の手になるものということもあるだろう。

著名な交響詩群や、「サロメ」「ばらの騎士」などの壮年期の作でなく、晩年に近い「無口な女」がR.シュトラウス自身も認める最高傑作という見方はユニークだ。このオペラが最高の作品かどうか、私には即断できないが、演奏会形式による日本初演(東京フィル)、舞台上演(東京オペラ・プロデュース)と、レアものなのに二度も国内で聴いているので、その点でも興味が尽きない。

もっとも意外だったのは、シュトラウス(作曲)とホフマンスタール(台本)という世に名高い黄金コンビが大変に相性の悪い組合せであると論じている点だろうか。その逆として、ツヴァイクとの出逢い、以降のオペラ作品の実りという記述になるのだが、「無口な女」はともかく、ツヴァイクの関与が薄い以降の作品も同列に扱うのはちょっと強引なところも感じる(著者の専門であるセルバンテスへのこだわりも然り)。

この本のもうひとつの主題は、第三帝国とのシュトラウスの私的闘争だ。ヒトラーの下で、このユダヤ人作家の台本による喜劇の上演に漕ぎ着ける駆け引きが山場になっている。異常な時代、体制に従順とみえる外面とは裏腹に、芸術家としての精一杯の抵抗を行い、それなりに勝利した大作曲家と捉えている。あの第三帝国にあって、相当に危ない橋を渡りながらシュトラウスは生き抜いたのだが、それは、独裁者としても獅子身中の虫シュトラウスが「世界に冠たるドイツ」文化の象徴であったがゆえに、切れなかったことに帰着するのだろう。

当時、ヨーロッパの東で戦った相手国にも、同じような作曲家がいたことを思い出した。国家体制やイデオロギーは違えども、シチュエーションは何と酷似していることだろう。二人の作曲家の武器が諧謔やパロディであったことまで共通しているのだから、空恐ろしい気がする。シュトラウスとショスタコーヴィチ、このあたりの比較論を書いたら、興味深い本になりそうだ。

さて、「サリエーリ」、この名前を知っている人のほとんどが「アマデウス」という映画を通してだと思う。 冒頭、精神病院のシーン、自殺未遂のサリエーリがモーツァルト殺害を仄めかす(告白する?)場面がある。虚構の世界では、若き天才と凡庸な老作曲家、天衣無縫と邪悪の対比、映像とそれに付けられたモーツァルトの音楽の影響力は絶大だ。誰しも、天才に嫉妬し精神に異状をきたしたサリエーリによるモーツァルト毒殺を信じてしまうのではないだろうか。ところが…

この二人、実は六つしか離れていない。宮廷作曲家という栄誉ある地位と、モーツァルトを凌ぐ成功を博した多くのオペラ、恵まれた家庭生活、彼に心酔する弟子たち、サリエーリがモーツァルト暗殺に手を染める動機など皆無、本文中に引用された「モーツァルトがサリエーリを毒殺したと言うなら話は分かる」という言葉の方がずっと説得力を持つ。なにせ、当のモーツァルトはじめ、ベートーヴェン、シューベルトもサリエーリに師事したのだ。
 文献、資料で挙証するサリエーリの人格の高潔さ、偉大な作曲家にして教育者、あの映画のイメージがいかにそれを貶めたか、罪深いものがある。デマゴーグの恐ろしさ、これは250年前のこととは言っておれない。いま、そこに、いくらでも転がっている話だ。

もっとも、この本、とんでもない誤謬を正すというのは付随的なもので、時代の変化のなかに忘れられたサリエーリの創作の歩みを辿るのがメインテーマだ。最近になって復活の兆しがあるサリエーリの音楽、2年ほど前、「ファルスタッフ」というオペラの日本初演のチケットを買っていたのに、行き損ねたことがいま思うと残念だ。

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