喪失!十六年もひと昔 ~ カルロス・クライバー逝く
2004/7/23

法人相手の営業の仕事をしていると、毎朝、日本経済新聞を後ろから見る変な習慣がついてしまう。ひとつの職業病みたいなもの。
 一枚めくって下段にある黒い棒線つきの人名、つまり訃報記事。取引先の元役員の名前でも載っていようものなら、さっそく弔電やら供花の手配、場合によっては通夜・告別式に参列となり、オフタイムの予定が吹っ飛ぶことも…。名前も知らない、当然に面識もない、でも大事なおつきあいだし、「葬」はプライオリティNo.1だから、仕方ないし…

先日、そんな記事の中に、あっと驚く名前があった。カルロス・クライバー!

指揮者のC・クライバー氏死去
 【ウィーン19日共同】
 オーストリア通信によると、クラシック音楽界で伝説的存在となっていた指揮者のカルロス・クライバー氏が13日に母親の出身地のスロベニアで死去していたことが19日、分かった。病死だが、死因は不明。74歳だった。クライバー氏の母親が明らかにした。カラヤン、バーンスタインなど大物指揮者死去後はカリスマ性を備えた最後の巨匠だった。
 クライバー氏は1930年、オペラ指揮の巨匠、エーリヒ・クライバー氏の息子としてベルリンで生まれた。父親がナチスに抗議したため、35年にアルゼンチンに脱出。54年にドイツ・ポツダムで指揮者デビュー。ドイツやスイスの歌劇場で活躍し、流麗で劇的な指揮で名声を確立した。その後は特定の地位につかずに、バイエルン国立歌劇場、ミラノ・スカラ座、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団など名門歌劇場やオーケストラと共演。ワーグナーやR・シュトラウスの歌劇を得意としたほか、ベートーベンやブラームスの全交響曲の録音も有名。70年代からたびたび来日。94年のウィーン国立歌劇場との歌劇「ばらの騎士」の共演は歴史に残る名演とされ、日本にファンも多い。90年代後半からはほとんど姿を見せなくなり、存命の指揮者としては伝説的な存在となっていた。最近はスロベニアで療養していた。

ああ、本当なんだろうか。ベートーベンやブラームスの"全"交響曲の録音なんて海賊盤さえ存在しないはずだから、眉唾の記事のようにも思えるが、それは記者の知識の問題に過ぎないだろう。死亡記事そのものが誤りということではなさそう。亡くなったんだ。
 7月13日、享年74歳。若いとは言えないが、さりとて指揮者ならこれからもあり得る年齢なのに。結局、この人の演奏は、1988年に、たった一度、接しただけになってしまった。

あれはニューヨークで暮らしていたとき、メトロポリタンオペラで観た「ボエーム」。奇しくも、このオペラハウスへのカルロス・クライバーの遅いデビューの日だった。まだ50代半ば、オーケストラピットの颯爽とした姿は鮮明に記憶に残っている。
 このデビューシーズンのあと、「トラヴィアータ(椿姫)」や「ばらの騎士」をメトロポリタンオペラで振ったのだが、そのときには私はすでに帰国。その後、何度かあった来日公演は、チケットが高すぎて見送ってしまった。惜しいことをしてしまったもの。

本棚からむかし買ったムック本、「WAVE31 カルロス・クライバー」(ペヨトル工房)を取りだして、パラパラと読み直した。本当に伝説になってしまった今、これからたくさんの本が出版されることだろう。

本の表紙

結局、大指揮者だった父親(エーリッヒ・クライバー)の影が、この人には終生つきまとっていたのかも知れない。素晴らしい演奏をするのに、演目はごくわずかに限られてしまったし、完全主義者ゆえかキャンセルもしばしば。父親とは正反対で、ついに、どこかの音楽監督や常任指揮者のポストにつくこともなかったし…。そういう仕事では、妥協が避けられないからなのか。

カルロス・クライバーが逝ったいま、思考停止状態に至らせるナマのオペラの凄さを味あわせてくれる人は、もういないかも知れない。

昨日観た文楽公演、大夫が語る浄瑠璃に「『十六年もひと昔、ああ夢であったなあ』とほろりとこぼす涙の露」という一節があった(「一谷嫩軍記」~「熊谷陣屋の段」)。私が米国でカルロス・クライバーを聴いてから、ちょうど16年、いろいろあったようであっという間のこと、人はいつか死ぬ。所詮うたかたの夢なのか。

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