漂泊と矜持 〜 「大黒屋光太夫」もしくは「おろしや国酔夢譚」
2005/1/19
 
 "漂流"というのは"冒険"とは同義ではありませんが、なぜか近しいものがあるようです。ロビンソン・クルーソー、十五少年、コンチキ号…、こどものころに夢中になった本には、そんな題名のものが多かった。
 
 昨年に出た岩波新書の「大黒屋光太夫」(山下恒夫著)という本を図書館で目にし、ああ、これは、「おろしや国酔夢譚」の主人公だなあ、懐かしい、と借りて帰りました。
 これは、労作、新書の軽さは微塵もありません。小説が及びもつかないノンフィクションの深さ、当事者たちの手になる史料を丹念に読み込んだ末のエッセンスであることが歴然。ちょっと驚きました。
 井上靖の「おろしや国酔夢譚」を貶すつもりはありません。あの本は、20年ほど前、ニューヨークの紀伊国屋で買った文庫本で読みました。初めての外国暮らし、妻子が合流するまでの短い期間でしたが、ひとり日本を離れて読む望郷の物語は心にしみたものです。
 
 伊勢若松の船頭光太夫が江戸に向かう途上、冬の発達した低気圧の直撃を受け駿河湾沖で遭難、航行不能となり、北太平洋を漂流の末にアリューシャン列島に漂着、ロシア人と遭遇する。カムチャッカを横切り、オホーツク海を越え、シベリアを西に帝都サンクト・ペテルプルグに至る長い苦難の道のり。帝都でエカテリーナ二世に拝謁、帰国直訴に及び、赦されて遭難10年を経て蝦夷地の土を踏む。極寒の地で果てたもの多数、17人の乗員で生き残り江戸に辿り着いたのは、ただ二人。
 時は1700年代の終わり、諸国の足音が聞こえ出したとはいえ、鎖国が解けるまでには、まだ50年あまり。
 
 寒いのが元来苦手な私にすれば、冬の欧州線のジェットから見下ろす、白いものの他ないシベリアの光景だけで怖じ気づいてしまいます。抑留経験のある父親から聞いた凍り付くイルクーツクのこと、夏の美しさは一入らしいですが、それでもご勘弁という感じです。
 24時間以内で地球上のどこにでも行ける現代に住む我々からすれば、気の遠くなるようなこの時代の時間と距離、言葉とて通じない他民族との邂逅、光太夫の経験は想像を絶する世界です。しかも、冒険家でもない一介の庶民、協力者があったとはいえ大帝国の元首と相まみえる僥倖。運命の流転に臨んだときの人間の力の凄さ、日本人としての矜持を感じる他はありません。
 
 前記の井上靖の作品の他にも、未読ですが、一昨年には吉村昭「大黒屋光太夫(上・下)」が出版されているようです。作家の創作欲をかき立ててやまないドラマがあるからでしょう。ただ、"事実は小説よりも奇なり"いや、フィクションよりも、もっと深い。
 今回の新書を読んで、フィクションの限界を図らずも感じるところとなりました。つまり、史実に基づくフィクションは、あくまでも作家の目を通し取捨されたものであり、当然、意識無意識のデフォルメが混じる。さらに、書き手の倫理観、価値観、さらには世界観も、そこに反映されてくるという当たり前の事実。それが得てして読み手の想像力を殺ぐことにもなるということ。フィクションを通して垣間見る歴史というものに、やがて飽き足りなくなる、自分で考えてみたくなるということです。
 昨年、新選組がブームでしたが、以前から幕末関係の本を読み漁っていたカミサンが、司馬遼太郎や、子母澤寛の小説から離れ、「遠い崖 アーネスト・サトウ日記抄」や「京都守護職始末 旧会津藩家老の手記」などの史料に至ったのはそういうことだったのか…
 
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