30年ぶりの泉屋博古館
2005/4/3

今年は桜の便りが遅れ気味、例年ならもう散りかける時期なのに…。雨模様の日曜日、カミサンと京都へ。

花粉症対策のレーザー治療が奏功、去年なら外出を控えていたのに、今年はOKのよう。何でも、今日が行きたかった展覧会の最終日だとか。花粉症にはありがたい天候だが、それでもやっぱり、車がいいらしい。

生駒から山越えで京田辺に抜ける裏道づたい、100円橋で木津川を渡ると、1号線は京都に近づくにつれ渋滞となるはずが、巨椋池ジャンクションからまっすぐ北にバイパスがつながっていた。高架の高速道路はまだ工事中だが、これは便利になった。観光シーズだけど、天気が悪いし、花見には早いのが幸い、岡崎公園まで渋滞知らず。

京都国立近代美術館では河井寛次郎展、以前、東山五条にある河井寛次郎記念館を訪ねたことがあるが、そこには登り窯などは残っているものの作品の展示は多くはなかった。川勝コレクションという、もともと個人所蔵のものが今回展示されている。およそ200点、高島屋の宣伝部長だった人らしいが、これだけ集めるということは財産家だったのか。
 我が家からそんなに遠くない安堵町にある富本憲吉記念館にも行ったことがあるが、この人たちは盟友だったらしい。信楽あたりまで陶器を見に行くカミサンはともかく、私には陶器の見極めはつかない。

次に訪れたのは泉屋博古館、鹿ヶ谷通を挟んだ有芳園とセットで、入社研修のときに連れてこられたはずだ。そのときは青銅器を見せられても、特段の興味もなく、土曜日をこんな遠足で潰さなくてもいいのにと不満たらたら。まさか再訪するなんて思ってもみなかった。

その後、会社の創立何十周年かの記念品に泉屋博古館所蔵の青銅器のレプリカが配られたが、それも何度かの引っ越しのうちに、どこかに行ってしまった。会社では粗大ゴミやバザーに出したという人も何人かいたものだ。この不届きものめ。

それが"虎鎛(こはく)"という名の青銅器であることを、ボランティアのガイドさんに案内されて館内を回っているときに気がついた。「はく」は「かねへん」に「博」の「つくり」、ところがJISにはコードがない。ここの展示物の名を表記するにはパソコンがUnicode対応していないと表示できないのだ。その"虎鎛"、泉屋博古館のホームページの解説は次のようなものだ。

横断面が正楕円形で、下縁が一直線をなしている釣鐘。中央正面に薄肉彫りで怪獣の顔面が大きく表されているが、この文様を饕餮(とうてつ)文という。天の神を具象化したものであるとか、天の神の使いとかいわれるが、当時の青銅器文様の中で最も重要な文様であった。側面と正面の4カ所に稜飾りがあるが、そのうち両側面の飾りは、2匹の透かし彫り風の虎が下を向いて並んでいる様を表している。 

実物を見ると確かにそのとおり。もっと大きなものかと思っていましたが意外に小さい。3000年前のものがこんなにたくさん残っているのは、いかにも中国。いずれも、そんな昔の技術とは思えないものだ。ふと思ったのは、知的財産権をうるさく言うアメリカに対し、「火薬も羅針盤も中国人が発明したものだが、我が国はそんな訳のわからないことなど言ったこともない」という言いぐさは、存外本音のところかも知れない。

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