播州龍野まで ~ 鶏籠山・的場山
2006/1/21

少し前に本屋で立ち読みしていたとき、何気なく手にとった山登りのガイドブック、的場山というのが載っており、いつか登ってみようと思っていた。それを思い出して改めて立ち読み、そのガイドブックは買わずに一枚270円の25000分の1の地図を購入。図葉は「龍野」。
 ついでに、金券ショップでJRの割引切符も購入。大阪から姫路まで、大阪・神戸と灘・姫路という二枚の切符の合わせ技。ちょっと奈良からは遠いから、休日の朝寝で出かける気が失せないように、外堀も埋めて…

意外に姫路は近い。大阪から新快速で約1時間、姫新(きしん)線にも連絡しているので、わずかの待ちでローカル列車に乗り継げる。下車駅は本竜野。その駅から歩ける山登りだ。駅に近づくと目指す的場山と鶏籠山が見えてくる。標高の低い山だから、すぐに登れそうな感じ。駅から旧市街へは揖保川を渡り20分ほどもかかる。鉄道敷設のときに土地の手当ができなかったのか、それとも鉄道を嫌ったのか、古い街にはよくある構図だ。

もともとは城下町、最初に登るつもりの鶏籠山は昔の山城跡ということ。麓に平城が築かれる前の戦国時代には、この山全体が城砦ということだったんだろう。麓の龍野城址から登山道が通じている。
 いつものことながら物好きな登山者は他におらず、山に向かおうとしたら城址公園の係員らしいおじさんに声を掛けられた。
「山登りかね。的場山に登るんかな」
「鶏籠山から、そっちに回ります」
「そんなら、登山口のポストに案内が入っているから持って行きなされ」

ザラ紙に印刷されたホッチキス留めの手作りの案内書があった。行程と途中の遺構などがイラスト・写真付き説明されている。地元の人しか知らない山だろうけど、結構登る人はいるようだ。龍野観光(ハイキング)のついでという人もいるのかも。鶏籠山は標高218mなので30分もあれば山頂。確かに、城跡とおぼしき石積みや平坦地が山頂近くに散在している。揖保川のあたりから見るよりも、上から見下ろしたほうが急峻を実感する。そりゃ戦国に城を築くんだから、こういう立地になるのだろう。

鶏籠山をあとに、本日の目的地、的場山(394m)に向かう。尾根を少し降りたところからの登りが意外にきつい。このあたりは国有林だそうで、檜の林。どうも京都や奈良の重要文化財の檜皮葺(ひわだぶき)の材料をここで採取しているようだ。

的場山の頂上に至ると海が見える。龍野は中国山地に入ったところではあるけど、海岸線からそんなに距離はないんだ。瀬戸内の海、一番近いのは家島諸島、その左に淡路島、右に小豆島。龍野の街は真下、海沿いには臨海工業地帯。400m足らずの山なのに、この眺めは素晴らしい。北に目を転ずると、ちっとも高くないのに雪がかぶった中国山地の山が連なっている。もちろん、的場山でも登山者の影はなし。雪の予報だったのに降る気配もない。穏やかな山だ。

この眺めだし地元には熱心なファンがいるようで、「的場山登山の会」があるようだ。頻繁に登っている人も多い模様。手づくりの木のポストが山頂にもあり、中を覗いてみると、登山者のための記帳用のノート、地元での紹介記事、写真などが収められている。ノートは2006年用となっていたから、新年にこの会の人が置き換えたんだろう。おまけに、高速道路のサービスエリアで貰えるロードマップがあったのには感心してしまう。25000分の1の地図は持ってきたけど、20万分の1の地図は持ってこなかった。このロードマップのおかげで遠景の島の名前も確認できる。地元の人のボランティア精神、サービス精神に頭が下がる。この前の山登り(鳥見山)で見かけた山頂の不快な人工物と対極にある。

山頂には電波塔が立っており、西側から車道が通じている。しかし、人も車も気配がなく静かなものだ。風もなく寒さもあまり感じない。一人の山頂でお湯を沸かしてゆっくりくつろぐ。年明けにスーパーの安売りで買った年越し蕎麦のカップで暖まる。

的場山から龍野の町に向かってまっすぐ急降下、中腹にあるのは日本書紀に登場する相撲の元祖、野見宿禰(のみのすくね)の墓。相手方の當麻蹶速(たいまのけはや)を蹴ってその腰を折ったというから、今の大相撲とは桁違いの激しさ。出雲の人とのことだが、行路の龍野で死んだらしい。殉死に代える埴輪の考案者でもあるらしく、剛勇でいて合理主義者だったのかも。まあ、それは知る由もないことだけど。

麓に辿り着けばそこは龍野公園、赤とんぼの歌碑が立っている。大きくて立派。中央に当地出身の三木露風の詩、左に山田耕筰が作曲した譜面がレリーフになっている。碑の前に立つとセンサーが感知し、スピーカーからワンコーラス流れるという仕掛け。楽譜を眺めたら、「赤とんぼ」はフラットが三つ付いた変ホ長調だったんだ と、妙なところに目がいく。

露風が幼稚園児のとき、家に戻ったら、離婚した母親は弟を連れて実家の鳥取に去っていたということのようで、その想いが「赤とんぼ」にもこめられているとか。でも、そのまま生き別れということでもなかったようで、霞城館(かじょうかん)という郷土文学資料館には老母との交流を示す手紙などが展示されている。

霞城館には同郷の哲学者三木清の遺品も数多い。真四角な個性的な文字が何とも風変わり。隣の矢野勘治記念館に入ると、この人は寮歌「嗚呼玉杯に」の作詞者ということだった。鼻持ちならないエリート意識が随所に顔を出すいかにも古めかしい詞である。同窓会で年配のOBはこれを歌いたがるんだけど、私は今ひとつ好きになれない。こちらは同じフラット三つでもベートーヴェンの第5交響曲と同じハ短調。

このあと、時間があったので、龍野歴史文化資料館と、うすくち龍野醤油資料館にも立ち寄る。お土産に「龍野の里」というブランドの小瓶を一本、それが本場の薄口じゃなく、さしみ醤油というのが天の邪鬼なところ。東京では刺身につける醤油が薄いのに閉口するが、やっぱりトロには濃厚な醤油がよく似合う。鯛や鮃ならポン酢だし。
 自分の苗字と同じ山が結構魅力的だったので、麓の古い城下町ともどものんびりとした良い休日を過ごすことができた。"播磨の小京都"という言い方はあまりふさわしいと思わないけど。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system