ふるさとの山に登る ~ 伊那佐山
2007/1/13

台風並みに発達した低気圧が通過したあと、寒くなったのも束の間、どうも暖冬気味だ。それでも近鉄榛原駅から週末に運行している霧氷バスには、かなりの数の登山者が乗り込んでいる。高見山方面と、三峰山(みうねやま)方面の二系統、私はひとり菟田野方面杉谷行きの路線バスに乗る。

芳野川(ほうのがわ)沿いに南に10分ほど行くと高塚バス停、もう一つ先の比布(ひふ)が登山口に近いが、八咫烏(やたからす)神社に寄っていく。6歳のときまで榛原で育ったのに、ほんと、うちの周りの狭い範囲しか知らないものだ。この全国的に知られるようになった神社も然り。昨年のワールドカップ前には相当の参拝客があったのではないかな。でもドイツでの惨敗からすると、御利益のほうは…

たった1人の参詣者だった私、踵を返して山登りに向かう。神社の参道から北の方向に額井岳がきれいに見える。別名、大和富士、ここからだと正に「山」の字の姿になるから面白い。今日の目的地は伊那佐山(637m)、芳野川沿いののどかな景色の中にポコンと浮かんでいる。竹橋という名のコンクリート橋で右岸に渡ったら、そこが登山口、昔からの石の道標と、最近の木の道標が、頂上まで導いてくれる。ゆっくり歩いて1時間あまり。

頂上の少し手前の脇道を3分ほど行くと猿岩という展望台がある。菟田野の里を見下ろす感じ。向かい側は音羽山・熊ケ岳・龍門岳の山系。頂上にはかなり立派な社殿がある。都賀那岐(つがなぎ)神社という。登りの途中、ほぼ一丁ごとに立派な石の道標が立っているのは、古くから地元の信仰の対象となってきたからか。社殿の脇には20人ぐらいは雨露をしのげそうな小屋がある。それで、三角点はと言えば、社殿の裏手につつましく埋まっている。きっと、神社のほうが先に建っていたのだろう。

さて、ここから北への尾根道は少し荒れている。「これより先はハイキングや登山に適さないので、林道を下りるように」という趣旨の地元観光協会の看板が立っている。もとより多少の藪こぎは覚悟の上、委細かまわず稜線を辿る。確かに、倒木とブッシュで、歩きづらいのは間違いない。それでも歩く人はいるようで、赤や黄のテープが随所に巻かれている。道が消えるというのではなく、山仕事の道やら踏み跡が多くて、どこを辿ればいいのか判りづらいというコース、ルートファインディングの初級編というところか。

かなり忠実に稜線を辿り、ちょっとした登りのあとに着いたのが井足岳(いだにだけ)というピーク、私の古い25000万分の1の地図には名前は出ていない。550mということだから、地図の等高線を確認して同定する。伊那佐山でもそうだったが、このピークにもご丁寧に複数の標識が。
 他の登山者に出合わない山登りばかりしているので、最近は山頂で一服したあと、美観を損ねる余計な標識をはずして持ち帰っている。今回は伊那佐山で5個、井足岳で1個、清掃登山をしているつもりはないけど、落書きを消すようなものだ。標識には"どん足会"とか"葛城の雀"とか、団体らしき名前がありる。この人たちは、きっと他の山でも落書き同然のことをしているのだろう。標識を置きたいなら間違いやすいポイントにセットすれば、次に訪れる登山者から感謝もされようが、これはただの自己満足、志の低いことだ。

登山道とも山仕事の道ともつかないルートを辿って、下りついたのは宇陀川沿いの檜牧集落、ここから榛原までは一投足。途中、墨坂神社に立ち寄りお参りする。境内で小学校前ぐらいの子供が遊んでいる。近所の子供なんだろう。神社の前の宇陀川に架かる橋を渡れば、私の生家の跡、こんなふうに私もここで遊んでいたんだろうなあ。

この宇陀川は両側から山が迫った榛原で芳野川と合流する。二つ合わせると相当広い流域を持つため、台風などの豪雨の際にはここで堤防が決壊という事態があった。子供のころ、二階から水浸しになった街で、消防団の人たちが舟で救助活動をしているのを見た記憶がある。
 今はない生家のすぐそばには肉屋、榛原牛を売りにしてレストランを兼営している。昔はどうだったんだろう。そのすぐ先には劇場"やまと座"、こんなのがあったんだろうか。大阪のミナミまで電車で1時間、そんな場所で旅回り大衆演芸の需要があるのか不思議だが、それが残っているということは昔からあったに違いない。子供のときの記憶なんて、鮮明なところと空白のところの斑模様だ。

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