真説甲州一揆 犬目の兵助逃亡記
2008/7/20

東京勤務の頃、週末の山登りで中央線沿線の扇山という1000mあまりの山に登ったことがありる。まだ稜線には雪が残るなか、富士山を眺めながらの山歩きを楽しみ、下山したところは旧甲州街道沿いの犬目という集落。山間部のカーブだらけの車道が、そこで突然まっすぐに広くなっている。

この宿場町の古い家並みの一角の「犬目の兵助の生家」という看板に目が止まり、短い紹介文に記された数奇な生涯に驚いた。

江戸末期、天保年間に起きた甲州一揆の首謀者とされているのが、この犬目の兵助ということ。天保7(1836)年の大飢饉の際に、農民3万人の暴動にまで発展した大事件、当然、首謀者は死罪を覚悟、離縁状を書いて妻子と別れて決起に及んだという。しかし、この兵助、一揆鎮圧の際に逮捕を免れ、そののち30年にも及ぶ逃亡を果たす。甲斐から信濃へ、北陸に出て西に向かい若狭へ。さらに瀬戸内から四国、奈良などを経て伊勢。海路を江戸に戻ったうえ、驚くべきは、遂に犬目村に戻って肉親との再会を果たし、その年に70歳で死去。それが慶応3(1867)年、もう翌年は明治維新。

早春の甲斐の山里、暫し兵助なる人物の逃亡の足跡と辛苦に思いを馳せたものだった。一体どうやって30年もの逃亡が可能だったのか、それだけでも興味は尽きないし、小説の格好の題材になりそうだ。私が読んだのは史料に基づき足跡を辿るノンフィクション、勝手に冒険譚に想像を膨らませるとの違って、事実ならではの歴史の発見がある。

一揆の首謀者、頭取と言うらしいが、これは兵助と治左衛門の二人。兵助は百姓代という名主に連なる村の中間管理職的な立場、一方の治左衛門は国定忠治などのような侠客だったらしい。一揆が壊滅したあと、兵助に逃亡を慫慂して治左衛門は自首し磔となる。これぞ、まさに任侠道か。

一揆そのものも大規模破壊活動を意図したものではなかったようだ。飢饉に乗じた米商人の買い占めに対し、衆を頼んで強引に米を貸し出させる「押し借り」を目論んでいたはずが、困窮する百姓たちに無頼の徒が合流し、規模が膨れあがるとともに制御不能の打毀しに変質して行く。太平の世にどっぷり浸かり、すっかり腰抜けとなった幕府役人、幕府直轄地でありながら、一揆の拡大に為す術もない醜態を晒し、一揆の後には甲府勤番以下御役御免等の大量処分が行われている。

さて、兵助逃亡記、歩くしかない時代のこと、西日本全域に及ぶ道程はさぞ大変なことに思える。兵助は日記を残しており、克明に足跡を辿ることができる。妻の実家が逃亡の支度に手を貸したようで、なにがしかの資金を携えての逃避行だったようだ。また、一揆に先立つ天保元年(1830年)には、何度目かの大規模な「おかげまいり」があったように、庶民が旅することは珍しくも何ともない時代になっていて、各地に「善根」と呼ばれる信徒などの無料の宿泊所が存在し、「施行」という物乞いで凌げるという事情もあったようだ。

とは言いながら、路銀もいずれ底をつく、兵助の逃亡生活を支えたのは算盤という特技、各地の名主宅などに泊まり、村の人々に数日間の教室を開いていた。数学者ではないものの、故郷の犬目ではひとかどの教養人であったことが、身を助けることになる。そもそも、郷里の犬目は甲州と言っても郡内(今の富士急沿線)と呼ばれる地域で、米作中心の国中(甲府盆地)と異なり、物産としては絹織物が主体、したがって商品流通のなかで算盤は必須でもあった。全国的な貨幣経済の発達が算盤指南の需要を高め、兵助は糊口を凌ぐことができた訳である。交通、経済、教育などのインフラが思いの外発達していた幕末、庶民レベルでも文明開化の下地は出来ていたのかも知れない。

兵助の逃亡、30年と言っても、諸国放浪は最初の一年あまりのこと、江戸に戻り、対岸の木更津に落ち着いてそこに根を下ろすことになる。逃避行も初めは一瀉千里に甲州から遠ざかっていたものの、四国に渡ってからはほとんどお遍路生活、とって返す道すがらは大峰参り、伊勢参りとおかげまいりの様相で、ずいぶんと余裕も出てきている。幕藩体制の崩壊も近く、箍が緩んでしまった統治下では、一百姓の逃亡者が身を隠すのに、さほど不自由はなかったようだ。

諸国放浪のなかで身につけた算盤教授のノウハウをもとに木更津で開業したばかりか、何と妻子も呼び寄せ次女も設けているというから、もはや逃亡者というイメージではない。郷里に戻って家督を長女の入婿に譲り、ご隠居となって大往生というから、幸せな晩年とも言えよう。

この甲州一揆は、その後の大塩平八郎の蜂起にも大きな影響を与えたということだが、さもありなん。ただ、武士の大塩のように義に生きて死ぬのはではなく、とことん生き延びるという庶民の強かさには共感するところ大だ。

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