夜中の薔薇 ~ 三人の先生
2008/7/22

しばらく前、東京の世田谷文学館で開催された向田邦子の企画展、行きたかったが都合がつかず、そのときに出された「向田邦子 果敢なる生涯」と題するブックレットだけ買ってきてもらった。とても好きな作家だ。

こんなふうに文章が書けたらいいなと私が思う作家が三人いる。向田邦子、野坂昭如、太宰治、それぞれ全く異なる個性だが、共通するところは文体の見事さ。しかも、その文体も三人三様。まあ、言ってみればこの三人が私の先生ということになる(勝手にそう思っているだけだが)。

向田邦子と言えば、「寺内貫太郎一家」や「あ・うん」などのテレビドラマの脚本で名高い人で、後者など、NHKで放映されたときには欠かさず観ていたように思う。さりげない、ユーモアさえ漂わせる描写に潜む透徹した人間観察の凄さ、女性の怖さを感じさせるところさえある。前者も毎週恒例のちゃぶ台返しのドタバタかと言うと、とんでもない。もちろん、そういうふうに見ることも出来るけど、それぞれの人物が持つ葛藤がしっかり書き込まれている。

全作品を読んだわけでなく、最近では、「夜中の薔薇」というエッセイ集を手に取った。この本の中にも、悠木千帆演ずるところの婆さんについてのくだりがあり、あの人物像は、達観することなく必死で老いと格闘する生き様であることが示唆されている。蓋し、然り。

このエッセイ集に先立つ「眠る杯」は、だいぶ前に読んだ。どちらも人を喰ったタイトルだ。片や土井晩翠、片やゲーテ、作詞者が聞いたら唖然とするような聞き違いの思い込みということ。その伝でいくなら、「粋な黒兵衛」や、「石野岩男の隣」だってありそう。「眠る杯」はともかく「夜中の薔薇」のほうが、それなりにロマンチックと言えるかな。

「夜中の薔薇」や「父の詫び状」にも書かれているように、生命保険会社の幹部職員だった父親に帯同して各地で暮らしたことが、この人の創作にも影響を与え、重要なモチーフにもなっている。同じような転勤族である私にとって、彼女の作品はとても身近に感じる所以だ。そういえばウチも猫を飼っている(本の表紙デザインで判るように、向田さんは無類の猫好き)。

表題となった「夜中の薔薇」の前、全編の二番目に収められたエッセイ、「楠」を私は気に入った。「私の書くものには、滅多に木が出てこない」という書き出し、それは制作費の関係もあるというようなことで、小説を書くようになっても、木を出さない癖が続く貧乏性だとある。そして、40年ぶりに父親の赴任先で何年か暮らした鹿児島の小学校の同窓会に出た時の話に繋がる。

その席で、Tという級友が、先生に頭を下げて頼みごとをしている。
「先生、近く孫が生まれますので、また一本お願いします」
「そうか、今度は何にするかなあ」
「長男のときは松で、長女が桜、次女が梅でしたからねえ」
「いいのを考えておこう」
 彼女は、息子が生まれ娘が生まれると、先生に植樹をして頂いていた。見上げるような大木になっていると聞いたとき、私は涙がこぼれそうになった。
 自分の持っていなかったものがはっきりと見えてきた。

とても短いエッセイの中のさらに一部、平易で何の衒いもなく、それでいて底の深い、見事な文章だと思う。早世が惜しまれる。

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