生誕100年 ~ 清張再読
2009/5/2

小倉に出張したのは、昨年秋のこと。駅にほど近い森鴎外の旧居は訪れたのに、それで時間切れ。小倉城内にある松本清張記念館は行けずじまいで、残念なことをしたもの。

生誕100年にあたる今年、久しぶりに清張の本を手にとってみた。阿刀田高「松本清張小説セレクション」の中の短編集。宮部みゆきも同様なセレクションを出しているが、それだけ同業者に清張ファンが多く、かつ彼らへの影響力が大ということだろう。

こういうセレクションの短編集、どんな作品を並べるかで、編者の感性が如実に反映されるのが面白い。この一冊の中には、「駅路」と、「たづたづし」という、テーマが通底する二編が配されている。両作品、長い年月をおいて再読すると、自身も全く違う感慨があることに驚く。

「駅路」は、最近もテレビドラマが放映された。その脚本を書いたのが何と向田邦子。それを観たものだから、原作と突き合わせてみたいというのも、再読のきっかけだった。小説の梗概はこうである。

銀行を定年退職した小塚貞一は、都内の自宅を出たまま失踪する。行く先も告げずに一人でカメラを抱えて出かけることは常なので、妻は気にもとめなかったが、戻る気配はない。家出人捜索願で動いた呼野刑事は、小塚の旅行先が東尋坊、下呂温泉、木曽福島、京都、奈良、蒲郡、串本と、小塚の前々任地広島との中間に位置することから、前任地名古屋を素通りして広島に向かう。そこで、過去の出勤簿の休暇の記録から、愛人福村慶子の存在を突き止めるが、彼女は小塚の失踪の一月前に病死していた。そして、両人の連絡役だった従姉の福村よし子が情夫と共謀し、慶子の死を小塚に知らせず、従妹の財産を横領したうえ、慶子との待ち合わせ場所に着いた小塚を殺害という犯罪が露見する。

この短編ではゴーギャンの絵が重要なモチーフになっている。小塚宅の玄関に飾られた複製画、呼野刑事はゴーギャンの人生に捜査のヒントを得るとともに、小塚や自身の人生を重ね合わせる。事件が解決したとき、相棒の若手刑事への述懐がこれ。

「ゴーギャンが言ったじゃないか。人間は絶えず子供の犠牲になる。それを繰り返してゆく、とね。それでどこに新しい芸術が出来、どこに創造があるかと彼は云うのだが、芸術の世界は別として、普通の人間にも平凡な永い人生を歩き、或る駅路に到着したとき、今まで堪え忍んだ人生を、ここらで解放してもらいたい、気儘な旅に出直したいということにならないかね。まあ、いちがいには云えないが、家庭というものは、男にとって忍耐のしどおしの場所だからね。小塚氏の気持ちはぼくなんかにはよく分かるよ」

これは、男の見方である。では、女なら…。向田邦子の脚本は小説のディテールは忠実に活かしながら、アッという翻案が加わっている。いかにも、彼女らしい。

福村慶子の名前は皮肉、恋人との再出発を前に病死するという薄幸さ、清張版では目立たない脇の人物の扱いに近いが、向田版では彼女を中心に据えた趣きすらある。もちろん病死もせず生き残る。小塚と約束した待ち合わせ場所に姿を見せなかったのは、いよいよ違う人生に踏み出すときになっての逡巡、それが幸か不幸か、彼女は従姉と情夫による殺害から免れることになる。「あんたは、運が強いよ」と、逮捕された従姉がつぶやくのだから。小塚の失踪も知らず、約束をすっぽかしたものの焦燥やみがたく上京、小塚夫人に近づき動静を探るという行動力は清張版の慶子には全く見られないものだ。か弱いどころか、もはや自立した女、脚本家自身の投影があるような気もする。時代の違いか。脚本の時代設定は原作より20年ほど進めている。

そんな違いがあるので、テレビドラマには女同士の会話の場面が多く出てくる。小説には全くない。松本清張は女の心の襞に分け入る文章の書ける人だが、さすが、女性が書くとこうなるのかというのは向田邦子の面目躍如というところ。

膨大な著作を残した松本清張、晩年の作品は晦渋なものもあるが、この「駅路」、昭和35年の傑作である。むかし読んだときには、ミステリーの佳作という捉え方でしかなかったものが、年を経て再読すると人生の断面が見事に切り取られている作品であることを知る。

阿刀田高が巻末の「編者エッセイ」で書いているように、「駅路」は「この長さで書いてはいけないアイデアじゃないでしょうか」と、私も思う。きっと依頼の枚数に収めるために、(書けたはずなのに)刈り込まれたディテールが惜しい。まあ、それだからこそ、向田脚本(この人の唯一の松本清張作品)の存在価値もあるのだけど…

もう一編、「たづたづし」。こちらでは万葉集に収められた歌が重要なモチーフで、この短編の基調となっている。松本清張にしてプロットにやや無理がある気もするが、男と女の情愛の機微をミステリーに仕立て、詩情さえ感じさせる一編だ。好きな作品である。

「夕闇は 道たづたづし 月待ちて 行(い)ませ我が背子(せこ) その間にも見む」

ずいぶんと情熱的、何とも直截な心情吐露。これはこのままがよい。現代語訳で誤訳してしまうと身も蓋もない。

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