そうだったのか ~ 「日本百名山」の背景
2009/12/14

大学のワンダーフォーゲル部OB会のメーリングリストに後輩が投稿した記事を読んだ。私より一年下の人たち三人が、この11月の連休に日本百名山完登を達成したという報告、とても嬉しそうな様子が窺える。首都圏からのアクセスの点では難物、屋久島の宮之浦岳が100座目ということだった。

中高年登山者のバイブルと化した深田久弥の「日本百名山」、私の本棚にもあるが、ついぞ全山制覇などと思ったことはないし、選外の山に登ることのほうが多いから、まず達成は不可能だろう。テッちゃんならJR全線乗車、山屋なら百名山完登、その趣味の中高年にとっては、残された寿命と体力(加うるに経済力)との兼ね合いで、ちょうどよい目標になるのだろう。実際に山登りをしていて、百名山に入った山と漏れた山、登山者の数が段違いというのも、この著作の功罪ということかと思う。出版が昭和39年、東京オリンピックの年、今のようにシニア層ではなく、青壮年が山登りをしていた時代のことだ。

深田久弥という人は、山の本を書いた人だとばかり思っていたが、もともとはそうでなかったらしい。もちろん、学生時代から盛んに山歩きをしていたのだが、普通の作家、つまり私小説や歴史小説の分野での著述から世に出たということだ。そのジャンルの深田作品を読んだこともないので、コメントのしようもないが、山の作家は転身後のことという。その変遷、秘められた衝撃の事実が、安宅夏夫氏の著した『「日本百名山」の背景』に書かれている。キャッチコピーはこんな感じである。

「日本百名山」の作家・深田久弥(1903~71)の愛と創作の秘話。なぜ深田は初期の瑞々しい小説世界から離れ、山の作家へと転身したのか。その秘密を解く鍵は二人の女性にあった。ひとりは、「改造」編集者時代に懸賞小説に応募してきたことをきっかけに結婚し、「共同作業」で作品を紡ぎ出していった北畠八穂。もうひとりは、思いがけず再会し、忍ぶ恋から二度目の結婚にいたる一高時代の初恋の女性・木庭志げ子。戦前・戦後の文壇状況のなかに作家の創作経緯を検証し、真実に迫る。

これを、「週刊新潮」風の底意地の悪い表現に置き換えてみると、こんなところか…

編集者として関わった懸賞小説で落選となった津軽在住の病身の女性の作品に光るものを見出した深田は、はるばる彼女を訪問し後には東京に呼び寄せたうえ結婚、彼女の溢れ出す創作をリライトのうえ、自身の名で発表し文壇の寵児となる。夫婦の共同作業と言えば聞こえがよいが剽窃同然、それは文壇内では公然の秘密であった。その活動も、深田が偶然再会した初恋の人に奔ったことで破局を迎える。文字どおり離婚が縁の切れ目、深田の裏切りに対し猛然と攻撃に転じた北畠八穂から逃げるように都落ち、文学的生命は絶たれたかに見えた。しかし、再会後に数多くの登山に同行した木庭志げ子の支えを得て、山の作家という形で奇跡の復活を遂げる強運。大ヒットとなった「日本百名山」とともに盛名を馳せたが、病弱の前妻に先立つこと11年、登山中の脳卒中で山梨県の茅ケ岳にて没す。

こんな風に書くと、女性の才能や献身を食い物にして生きたゴロツキのようになってしまうが、真相のほどは定かでない。この新書とも思えないほどの読み応えのある安宅夏夫氏の本、調査検証に基づく淡々とした記述を繋ぐのは、深田久弥が二人の女性を真摯に愛したというトーンである。創作の煩悶や女性問題の葛藤、安宅氏の記述は深田へのシンパシーがベースになっている。もっとも、北畠八穂の側から書けば、言語道断、とんでもない男ということになるかも知れない。

もとより夫婦や恋人同士のこと、傍からは窺い知れない部分があまりに多く、真実が奈辺にあるかは想像の域を出ない。火宅の人となっても不思議でないのに、そこまでの修羅を免れたのは、深田の応召という巡り合わせ、戦時下という特異な情勢も影響しているのだろう。塞翁が馬というか、その点でも深田は幸運である。もちろん辛苦はあったろうが、才能に恵まれ、友人に支えられ、女性に尽くされ、結局は好きな山登りで生活の術を得たわけだから幸せな人である。うらやましい、そう思ってしまうのは、やはり男の身勝手さなのかな。

ジャンルのトップメニューに戻る。
inserted by FC2 system