油日岳 ~ そのあと、芭蕉史跡めぐり
2009/12/26

夜中に雨が降ったらしい。道路は濡れているし、山間は薄い霧が漂っている。でも、天候は回復基調だから全く問題なし。名阪国道を東に向かう。夜明け前後の時間なのにトラックの多いこと。土曜日と言っても年末、モノの動きが多い時季だし、無料の高速道路なのだから当たり前のことか。

上野盆地に入って完全に夜が明けた。上柘植インターでJR草津線沿いに走る県道4号を辿り、余野公園で右折、奥余野森林公園の中の林道を車両通行止のところまで進む。もうそこが油日岳の登山口。山登りの車はおろか、人の姿も全く見えない。この調子では、本日唯一の登山者になるかも知れない。

駐車位置からすぐで三馬谷の出合、休憩所があり沢沿いの登山道となる。小振りの滝が連続したあとは傾斜は緩やかになるが、まもなく左手の三重・滋賀県境の尾根に取り付く。そこそこの勾配で、もう少し行って一休みと思う矢先に油日岳山頂。歩き出して30分あまり、登山口が410mほどなので、300m近い高度差があるはずなのに呆気ない。25000分の1地図の表示は693m、山頂の標識には698mと訂正した書き込みがあるが、真偽のほどは不明。岳大明神という祠がある。

あまりに簡単、まだ9時前、これじゃ午前中に下山だな、尾根づたいに南のほう、鳥山と旗山にも登って帰ろうかとと思ったが、これがとんでもない間違いの始まり。25000分の1地図を持参せず、昭文社の鈴鹿山脈の登山地図だけというのが失敗のもと、適当に尾根道を行けば楽勝のはずが、どうもそっちの方向とは違うルートに進んでしまったよう。三馬谷に東側の尾根づたいに下る道のようだ。そうか、少し先の三国岳(伊勢、伊賀、近江の境)まで行って南下するルートが正解だったと気付いたが、戻るのも面倒だ。これはこれでまともなルート、そのまま降りることにする。11時にはスタート地点に辿り着くだろう。そして、そのとおり。

いちおう道標はあって、そのルートを逸脱することはなかったのだが、お世辞にもよい道とは言い難い。辿る人が少なく、折しも枯れ葉が踏み跡を隠す時季、やせ尾根と随所に露岩という山域なので、コースを外れてしまうと危ない場面もありそうだ。油日岳までが楽すぎた反動か、時間こそ短いが久しぶりにルートファインディングに気を遣う下りとなった。いつも単独行だから慎重に行動する習慣はあるが、山勘には自信があると言っても、やはりまともな地図は持っていかねば。

自分のことを棚に上げて言えば、この山域の道標は問題含みである。比較的新しい立派な看板だけど、表示する山名が目先のものだけであるというのが最大の欠陥だ。しかも、それが国土地理院の地図に山名表示がない地元の人しか知らない固有名詞、それは措くとしてもその先の著名な山名も併記してこそ、位置関係が把握できるというもの。山登りをしない人間が作ったことが丸わかりである。せっかくの投資が惜しい。

登っているあいだは油日岳の姿ははっきりと見えなかったが、霧も晴れた余野公園から、ようやく油日岳、忍者岳、三国岳という連なりが確認できた。くそっ、やっぱり間違うというのは口惜しいものだ。立ち寄った油日神社では正月の準備がちょうど終わったところのよう。近所の人たちが清掃を終えたところ。つまり、私が一番乗りの初詣参拝客ということか。

あまりにも早く下山したので、伊賀上野に寄り道した。子ども連れなら忍者屋敷だが、中高年ひとり、芭蕉ゆかりのスポットを巡る。芭蕉生家、上野城の内にある芭蕉翁記念館、蓑虫庵の三点セットで、割引入場券もある。徒然草ではないが、昔の家屋というのはどうしてこんなに夏向きなんだろう。今でこそ温暖化が進行しているが、私の生まれた伊勢街道沿いの宿場町榛原でも昔はかなりの積雪があった。そこよりも少し標高は低いにしても上野盆地とて大同小異、冬は寒くて仕方なかろう。芭蕉の生涯は50年、江戸時代なら普通かも知れないが、この上野に生まれ、漂泊の生活を送ったことも影響しているのだろう。

吟行というにはあまりに長い芭蕉の長期ロード、歩くしかない時代のこと、旅に明け暮れたのは40代前半の壮年期だが、それにしても大変な距離だ。私自身は俳句に興味はないが、あの長旅、荷物はどれだけ持っていったのだろう。日帰り登山でもそこそこの荷物なんだから、街道づたいの旅とはいえ必要装備は結構なものになったはず。着替えはどうなのか、洗濯はいつどうしたのか、ATMもない時代に路銀は拐帯したのか、為替のようなものがあったのかとか、つまらないことが気になる。おもてづらの句作では見えない紀行の裏側、書かれない部分のほうにすごく興味がわく。そんなことを研究している人がいるかも。

例えは悪いが、今ならポップシンガーの全国ツアー、大プロモーションみたいなものか。それを仕組んだ興行師がいるのかな。きっと各地ではごっつぁん三昧だろうし、地方の分限者にとっては俳聖来たるということで下にも置かぬもてなしだったろう。著述から勝手にイメージするような苦難の道中ではなく、大名旅行同然だったのかも知れない。「旅寝して みしや浮世の 煤払い」という時節ものの句があるそうだが、存外こういうお気楽道中という部分もあったりして。そんなことを、あれこれ思った芭蕉史跡めぐりだった。

三か所回ったらちょうどよい時間、再び名阪国道で戻る。その前に鍵屋の辻を経由。ここも歌舞伎や浄瑠璃で馴染みのある場所だ。たぶん、「伊賀越道中双六」は観たはずだ。もっとも、鍵屋の辻ではなく別の段だったような気もする。その場所は公園になっていて、仇討ちの当事者の名を冠した数馬茶屋が建っている。荒木又右衛門の名前のほうが人口に膾炙しているのだが、実質リーダーとはいっても助太刀だから、そういう訳にもいかないんだろう。今の国道163号、奈良方面から向かうと木津川を渡って上野城下に入る街外れの位置、待ち伏せするには適当な場所かも知れないと、山登りの一日のつもりが午後はすっかり江戸時代に。

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