世界遺産、石見銀山を歩く
2010/3/21

奈良に住んでいると世界遺産なんて珍しくも何ともないが、せっかく島根まで出かけたのだし、こんな機会でもない限り訪れることもなかろうと、さらに西へ向かう。
 高速道路は出雲の先で終わっているので、そこからかなりの距離がある。日本海に沿って走る道は、石見大田から山間に入る。そんなに登りになるわけでもないし、なだらかな山の姿だ。峻険な山脈が立ちはだかる四国の別子銅山とはずいぶん趣が違う。昨夏に銅山跡、そして銀山跡とくると、次は佐渡にでも渡って金山跡にも行かねばならぬ。その先は南アフリカのダイヤモンド鉱か。もっともワールドカップを観に行く計画は私にはない。

世界遺産登録から3年近く経過しているので、もう人出も収まっただろうと思ったが、さすがに春の連休だ。銀山跡から少し離れた駐車場にはバスや乗用車がいっぱい。もともと、観光客が押し寄せるなんてことを想定していなかったところに、まさかの世界遺産認定、大慌てでアクセスなどを整備したことが窺える。シャトルバスで向かう大森集落も、まだ町並み整備中のもよう。これからの観光シーズンに向けて街道の補修をしている様子だ。中山道妻籠ほどの規模ではないが、それなりに古い町家が並ぶ。

やはり、ここのハイライトは間歩(まぶ)と呼ばれる坑道だろう。ただ、そこに行くにはシャトルバスを降りて、一里の道のりを歩きか自転車、チャリンコなら時間は短くて済むにしても沢沿いの登り道、どちらを選択するかは難しいところだ。

沢沿いに点在する間歩のうち、規模が大きく観光用に公開されているのが龍源寺間歩、狭い坑道を周回するコースになっている。お決まりの展示よりも、人の背丈ぎりぎり、幅もぎりぎり、この先立入禁止の奥に続く坑道が興味深い。鉱脈に沿ってひたすら掘って掘ってという感じだろう。戦国時代、地球規模なら大航海時代、その頃に世界の三分の一の産出量を誇ったという往時の殷賑ぶりを、この遺跡の有様や現在の町並みから想像するのはかなり困難だ。

山を崩さず、木を切らず、狭い坑道を掘り進んで銀を採るというやり方、機械力に頼れないこの時代としては当たり前のことだったのかも知れないが、逆にそれがエコ生産方式であるとして世界遺産登録の決め手になったというのだから、何が幸いするかわからないものだ。

ありがちなけばけばしい店がないのは好感が持てる。大森集落が伝統的重要建造物群保存地区に指定されているからだろう。間歩からの道沿いには銀の工芸品店はあっても目立たぬ佇まいだし、大森小学校は何とも懐かしさを覚える昔の校舎だ。大森代官所跡などのスポットも妙な気負いがないところが自然でいいな。

さて、アクセスが乗合バスだと時間が読めない。戻りの指定券を買っていたがもこれじゃ乗り遅れそう。大田市駅に立ち寄ってみどりの窓口で乗車変更、これでゆっくりと。多伎町の海岸で一休み。日本海の荒波でもないが、風は強い。夏は海水浴で賑わうのだろうが、今は人影もまばらだ。

「ねずみ男駅」のアナウンスこそないが、その愛称を冠する米子駅で岡山行の特急やくもを待つ間、駅頭のモニュメントに気がついた。米子は鉄道管理局が置かれたところだから鉄道関係記念碑があっても不思議じゃないが、「山陰鉄道の歩み」という表示板はとても興味深い。これによると、境港~米子~御来屋(みくりや)の区間が開通したのが明治x35年とある。と言うことは、境港線が山陰の鉄道の魁ということか。京都から出雲市まで山陰線が伸びるのはその10年後だ。鬼太郎列車が走り、各駅には妖怪の名前も付けられて人気ローカル線となっている境港線から鉄道建設が始まったのは、平坦地という好条件もあるだろうし、松江よりも米子のほうが経済活動の中心だったということだろう。

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