漂泊者のアリア ~ 関門海峡駆け足ツアー・下関の巻
2010/4/24

土曜日、北九州八幡での会議に出張、日帰り圏内だけど折角なので前日から。泊まりの経費は出ないけど、IC早特にしたら宿代ぐらいは浮くという寸法、いまどきホテルも安くなった。おまけにこの日開業の特別キャンペーン価格だ。わざわざ小倉から二駅戻って本州、下関に泊まる。温泉付き、ダブルベッドを独り占め、フグもいっぱいの朝食フルバイキングで5900円也。

早起き、朝風呂、腹一杯、万全の態勢でいざ観光に。何しろ、フリータイムは午前中だけ、順路を考えて回らねばならぬ。初めての土地で戸惑うのは路線バス、地元の足だから余所者には判りづらい。でも、誰にも尋ねずホテルでもらったマップを眺め経路を推理してというのも楽しい。いざとなれば日本語が通じる世界だ。

乗って10分ほど、唐戸の停留所でバスを降りる。巨大なフグの像がある亀山八幡宮、耳なし芳一のお堂のある平家ゆかりの赤間神宮、隣は日清講和記念館を併設した料亭春帆楼、そこから李鴻章の名が付いた小径を辿ると藤原義江記念館への道が分かれて丘を登っていく。

細い急勾配の道を少し登ると白い門扉に紅葉館の表示、ここが藤原義江記念館だ。事前予約が必要とのことで前々日に電話したら、こちらの名前を聞くわけでもなく拍子抜け、どうやら来館者があるなら記念館になっている旧い洋館を開けておく程度のことなんだろう。電話に出た大司さんというおばさんが管理人というか館長のようだ。同じ敷地内にその方の住居がある。

入場無料、入口にカンパの箱があったので100円玉をひとつ。古いポスターやら写真が並んでいる。大司さんは大きな紙をテーブルに広げて写真の整理に余念がない。最近、まとまって写真が見つかったということなので、これがそれなのかも。墓標の写真があったので尋ねると、「これは鎌倉なんです」とのこと。

室内には当然のことながら、我らがテナーの録音が流れる。この人の名前を冠した団体のオペラ公演はずいぶん観ているのに、その歌を聴いたことなんてなかったと思う。ヴィリアの歌とは、女声のナンバーが流れているのにはちょっとヘンな感じもする。かかっていた録音の声は思ったほどの傷みはない。

ボエーム、ローエングリン、カルメン、椿姫、イリス…、内外で出演した作品の資料が残っている。あまり名前を聞かない劇場が多い。いったい彼の地でどういう風に受け取られていたんだろう。記録に残っているのは、オペラ出演よりも日本の歌曲を並べたリサイタルが多かったように思うが、遙々日本からやって来たテノールという物珍しさ半分だったのかも知れない。日英の混血、ヨーロッパの舞台に登っても違和感はなかったのだろう。今でこそ、日本の歌手、就中ソプラノが欧米の歌劇場に出演することは珍しくないが、この人の時代には全く違っていたはず。三浦環とか藤原義江という人は、メジャーリーグの村上投手のような存在かも。村上がいなければ、野茂も、イチローも、松井もなかっただろうし。

二階に上がると、そこは「漂泊者のアリア」の部屋、古川薫氏の著作は昔に読んだことがあるが、細かな内容は忘れてしまった。芸者の子という出自、混血ということでの偏見、破滅型に近い奔放な生き様、そういう義江の生涯を同郷の作家が暖かい眼で見ていたという印象だけが残っている。もうこの本は絶版になっているようだ。60代半ばでの直木賞受賞作ということで、当時は話題になったと思うが、記念館に置かれていた文庫版にしても、いまは書店で見かけることはない。

来館者は私のほかに夫婦連れだけ、ゆったりとした気分で見物できるミュージアムだ。庭に出ると、高台の記念館からは関門海峡が眼下に一望できる。門司の街はすぐそこだ。頻繁に通過する船に向かって庭に建てられたモニュメントのてっぺんで藤原のダンナが歌っている。

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