「日光鱒釣紳士物語」、「二荒」、「日光」 ~ 盗作騒ぎ、野次馬の眼
2010/5/8

死者に鞭打つつもりはない。二度の盗作騒ぎを起こして先頃亡くなった作家がインチキ野郎だったのか、それともまともな創作者だったのか、自分で確かめてみたいというだけだった。図書館に3冊リクエストしたが、あまり物好きはいないとみえて予約待ちなし。私はこの人の作品を読むのは初めてだ。そもそも立松和平という人が作家だという認識はなく、ニュースステーションでこの人の声と映像が出た途端にチャネルを替えていたぐらいだから、田舎が売りもののタレントという程度に思っていた。

日光を舞台にした作品、私自身このあたりの山には何度も登っているし、盗作騒ぎもさることながら、どんな物語なのか興味があった。

「二荒(ふたら)」、「日光鱒釣紳士物語」、「日光」の順に読んだ。盗作問題で「二荒」が絶版となったあと、引用部分を削除したうえでリライトし再出版されたのが「日光」ということだ。したがって、話の中身は同じだが、構成が大きく変わっている。

「二荒」では奈良時代の勝道上人による男体山開山、明治期の中禅寺湖畔での外国人によるフライフィッシング事始め、昭和の終わり頃の若者たちの恋物語、三つのストーリーが交互に織りなされ、1200年の時の流れの中に、日光の悠久の自然と人の営みが描かれる。自然と人間が渾然一体となった香りがこの本のページから漂ってくる。艱難辛苦の末に男体山の頂きに到達する勝道上人も、鱒釣倶楽部の主であるハンス・ハンターも、勝と佐代という現代の恋人たちも同じく、山と川と湖に抱かれ自然と共生する歓びに満ちていて、それが瑞々しい筆致で余すところなく描かれている。読後感は爽やか、蓋し「二荒」は傑作である。

そして「日光」、「二荒」とは違って三つの物語が時系列に流れる。判りやすいといえばそのとおりだが、「二荒」のような時空を隔てた人間の営為の繋がりを感じにくくなっている。これは、再出版に至った事情が事情だけに構成そのものから変えたのだろうが、オリジナルのほうが優れている。

さて、問題の箇所だが、「二荒」の中の1ページ程度の会話部分が「日光鱒釣紳士物語」の引き写しということである。確かにそこだけ見ればそのままである。でも、これが盗作と言えるのだろうか。鱒釣場の管理人のモノローグといったくだりで、日光に集う英国人や日本の支配層の人々と土地に生きる人との関係性を示す部分ではあるが、著作全体からすればごく一部のことに過ぎない。それがそのまま立松の著作に使われたところで、肝の部分でも何でもない。この引用は盗作とかいう次元のものではなく、別の表現に置き換えることぐらい造作もないことだ。それをせずにそのまま引用し、「二荒」の巻末の参考文献には福田和美「日光鱒釣紳士物語」がリストアップされている。どこの世界に盗作の元文献を明示する人間がいる。「二荒」を出版した新潮社は、「使用の仕方が参考の域を超えていると判断せざるを得ない」ということで絶版回収を決めたとのことだが、果たしてそれが妥当なのか。

福田和美氏、日光市の職員で長年にわたり日光の歴史を探究している人のようだ。「日光鱒釣紳士物語」は労作である。この書物の中ではハンス・ハンターの「東京アングリング・エンド・カンツリー倶楽部」の前史として、鱒釣り事始めはイギリス人貿易商トーマス・グラバーであったことが紹介されている。あの長崎グラバー邸の主である。ハンターよりもグラバーに力点が置かれているぐらいだ。とても興味深く、近代日本の裏面史を覗くような感がある。

でも、何でこんな諍いになったんだろう。双方の著書にはみるべきところが多く、それぞれが価値あるものなのに、ごく一部が重なったことで不毛な結果に終わるのは残念なことだ。福田氏にすれば売れっ子作家に積年の調査結果をつまみ食いされたことが腹に据えかねたのだろうと想像するし、その気持ちもよくわかる。でも、どう見ても引用は根幹に関わるものではないし、そんなことで「二荒」絶版というのは勿体ない。経過説明、謝罪広告、印税の一部譲渡など、いくらでも大人の対応があったと思うのだが…

ジャンルのトップメニューに戻る。
inserted by FC2 system