かげろう座 ~ 五條を歩く
2010/5/30

「かげろう座?なに、それ?芝居なの?」と、カミサンに尋ねる。日曜日に行ってみたいということだ。どうもそれは、橿原今井町の六斎市みたいなものらしい。つまり、古い町家でのフリーマーケットのようなイベントとか。遷都1300年で奈良周辺の名所は観光客だらけ、五條まで行けばもう和歌山に近い。混むこともなかろうと、ハンドルを握る。

部分開通の京奈和道は無料で走れるが、ちょっと遠回りなので県道5号大和高田斑鳩線、30号御所香芝線を乗り継いで五條に向かう。葛城・金剛の山腹、国道24号よりかなり高い位置を走るこの道は大和三山を見下ろす眺めがお気に入りだ。

峠を越えて吉野川に向かって下る道脇には「かげろう座」の幟がたくさん並んでいる。ところが市内に入っても、新町一帯で開催とあるのにそれらしい場所が見つからない。国道沿いのスーパーオークワで飲み物を買ったついでに、近所の人らしいおっちゃん・おばちゃんに尋ねる。
「あのう、かげろう座って、どのあたりでやっているんですか」
「ああ、この裏手、川のほうに歩いて10分ぐらいのとこや。もうちょっと向こうから川のほうに降りたら、原っぱが駐車場になってて、ぎょうさん車が駐まってる。人出が7万人やて」

何と、そんな大層なものだったのかと、教えられた方向に車を走らせる。吉野川が蛇行したところの広い河川敷に臨時駐車場があった。そこから循環マイクロバスが頻繁に出ている。なるほどそれで7万人か。「かげろう座」の場所が判らなかったのも道理、国道と平行してはいるが、ちょっと川側に下ったところ、狭くて長い通りである。
 「かげろう座」を運営する地元の新町塾のサイトには、日本最古の町並・民家「新町通り」として、次のような説明があった。

新町は慶長13年(1608年)二見城主松倉重政が城下町の振興莱として、年貢諸役を免許して商売を行いやすくしたため、当時新町には西町31、中町42、東町22、合計95棟の家が立ち並び、月2回の市が立っていた。重みのある古い民家が多いことその古さにおいて、新町の町並「約1000m79棟」は全国第1位に位置づけられる。今から約400年前、慶長12年(1607年)の棟札をもつ、栗山家住宅は建築年代が明らかな日本表古の民家として国の「貢要文化財」に措定されている。また、1704年建築の中家住宅は「県指定文化財」となっている。

後から知ったことなので、件の栗山家住宅は見落としてしまった。もっとも、現在も住居として使われていて非公開ということなので、中を見ることは出来なかった訳だが。今井町の古い住居の多くが六斎市のときには公開されるのと事情が違うようだ。こちらは、「自由市場かげろう座」との呼称どおり、古い町並みにずらりと店が並ぶ。ところどころの小広場ではチンドン屋、剣劇、武者行列、バント演奏と賑やかなことだ。もちろん屋台もいっぱい出ているので、さっそくたこ焼きを求める。日陰を探してカミサンと「あっちっち」と爪楊枝を口に運ぶ。

実は、この休憩スポットには意味がある。腰掛けたのは新町通りを跨ぐ橋脚の下。それは道路ではない。上にあがっている人はいても車の姿はない。それどころか、緩やかなカーブを描いて民家の脇を抜けてきたコンクリート橋は吉野川の堤防の手前でプツンと途切れているのだ。そう、これはテッちゃん大興奮、五新鉄道の線路跡。一度も列車が走ることなく放擲された末の鉄道遺跡、河瀬直美監督の「萌の朱雀」だ。まあ、こういうものを観て喜ぶのは物好きと言われても仕方ないか。

お店を冷やかし端から端まで歩いて2時間近く、地元の人だけでなく、いろんなところから来て出店しているようで、大変な規模である。ガラクタばかりを並べた店に面白いものを発見。子どものころ家にもあったアルマイトの水筒だ。そうそう、キャップの中央に磁石が埋め込まれている。栓はコルクだ。こりゃレトロ、山登りに持って行ったらカッコいいぞ。

「懐かしいものがありますなあ」と店番のおっちゃんに声をかける。
 「45年前のもんでっせ、新品。さっきも三つ売れた。1500円と付いてるけど、1000円にしときま」
 ほほう、確かに新品らしい。とは言っても年代物、革紐は固くなっているし例の磁石にしても、壊れているものもある。状態のよさそうなものを見繕って、おっちゃんに、「このキャップの磁石は潰れてるから、こっちのと入れ替えていいかな」と、あれこれ組合せを変えて一つ購入、かつての新品、変色した紙の商品タグまで付いているぞ。大阪・京橋の会社が製造したもの。はて、あのあたり、戦争末期の大空襲で焼け野原になったはずだが、復興後間まもなくの製造ということなら、アパッチ族が生産したものかも。

ジャンルのトップメニューに戻る。
inserted by FC2 system