「歌う国民」 〜 もうひとつの近代音楽史
2011/2/6
 
 渡辺裕「歌う国民」という新書、これはとっても面白い。「推理小説を読むような興奮あふれる、もう一つの近代史」というキャッチコピーは誇大に過ぎるが、目から鱗ということがいろいろあって、音楽書とは思えないほどなのは確か。この人、「聴衆の誕生」で登場した頃から注目していて、音楽社会学というか歴史学というか、こういう切り口があるのかと驚いたものだが、今回も労作だ。これは音楽書として限られた読者の目に触れるだけならもったいない。おすすめの一冊。
 
 いきなり明治25年の「夏期衛生唱歌」というのに笑わせられる。「すべてのみくひしたものが あとでわるいときづいたら ゆびをさしいれはきだして あとをしほゆでよくあらへ」、何とも珍妙、こんな歌詞を付けた歌を大真面目で作り歌わせていたのだから驚く。というのが序であり、そこから国民づくりのツールとしての音楽という流れで、唱歌、体操、校歌、県歌、労働歌、うたごえ喫茶、カラオケまで取り上げる。それぞれに興味深いエピソードが挿入されて、およそ150年におよぶ近代以降の国民と歌との関わりが語られる。
 
 この人の見方は多層的であり、例えば、労働歌すなわち左翼運動といったような単純なカテゴライズには与しない。その外縁に繋がるうたごえ喫茶になると政治的な色彩は希薄になり、それがカラオケまで至ると何をかいわんやである。政府であれ反政府であれ権威筋のもともとの意図や思惑とは乖離して摂取して行く国民のしたたかさを浮かび上がらせる。思想があるようで、ない。ないようで、ある。そこに垣間見える、日本文化の、国民の、柔軟性を肯定的に捉えている。異文化を理解し受容することの速さの一方で、決して自文化の根幹を変えることなく換骨奪胎して取り込んでしまうところに国民の本質を見ている。
 
 「卒業式の歌をめぐる攻防」という章があり、「仰げば尊し」から「旅立ちの日に」に移っていった背景が述べられている。私などは前者で、息子たちは後者である。「今こそ別れめ」は已然形係り結びであることや、「いと疾し」なんてどんな漢字かも知らずに歌った覚えがあるが、子どもの世代はその歌すら知らないはずだ。「身を立て名を上げ」は必ずしも立身出世を言うことではないにせよ、その言葉に繋がる価値観の否定もあって、「旅立ちの日に」移行していった歴史でもある。ただ、この本には、「《仰げば尊し》の逆襲?」という記述もあり、「ドラマ『女王の教室』の衝撃」というどんでん返し、歌詞が表象するとされていた価値観の逆転にも触れている。つまり、「旅立ちの日に」が歌われる卒業式を抜け出した生徒が、学校を追われる教師(天海祐希)のために、自分たちだけの卒業式で「仰げば尊し」を歌う、もちろん、問題の二番の歌詞も、というのがドラマの最終回のシーンである。
 
 「東大の『校歌』をめぐる顛末」の箇所も面白かった。学生時代を振り返っても確かに校歌というものはなかったと思うし、あるとすれば「ただ一つ」だろうし、私はそれしか知らない。「県歌をめぐるドラマ」の章では、長野県民なら誰でも知っている「信濃の国」の県内複数文化圏の統合に果たした意義、石川県民なら誰でも踊れる(!)かつての国体大会歌「若い力」とか、驚くようなことが次から次に目に留まる。
 
 この本は唱歌、校歌、県歌、労働歌といった普通の国民に広まっていった歌をめぐる論考が中心なので、いわゆるクラシック音楽に関する記述はわずかだ。そんな中で、「『日本オペラ』と歌舞伎改良」の項で書かれている明治44年の帝国劇場での「カヴァレリア・ルスティカーナ」、「本来は日本語の訳詞で上演すべきところ、体制が整わずやむを得ず原語で上演する」と言い訳したというくだりには驚いた。字幕が当たり前の現在と状況が違うとはいえ、今の価値観とは全く逆だ。本来その言語に対して付けられた音楽なのだから、原語で上演してこそ音楽の真価が受容できるとするのが現代の大勢だが、誰もが共有できる日本語の文化として日本人の手で育てて行くことが本格的アプローチであるというのが当時の思想だったよう。今でも英語上演を貫徹しているイングリッシュ・ナショナル・オペラのようなところはあるが、少数派である。ニューヨークでもミラノでも、新しい作品、新しい演出が登場すればリアルタイムで受容できる現在、逆に異文化を咀嚼して自らのものを産み出す力は衰えてきているのかも知れない。
 
 併せて読んだ團伊玖磨「私の日本音楽史」、10年以上前の本だが、こちらも意外に読みやすかった。「NHK人間大学」のテキストがベースらしい。こちらはもっと長いスパンでの外来音楽文化受容発展史であり、@奈良時代のアジア大陸からの伝来、A戦国時代のキリスト教音楽の伝来、B明治維新後の西洋文化の導入の三つの時期を辿っている。その最後の部分が「歌う国民」とオーバーラップする。異文化の受容において、そのままではなく換骨奪胎して新たなオリジナルを創りあげる日本人の特質を強調することについて、両著は通じるところがある。多かれ少なかれどの民族にしてもそうなのだが、日本においてはそれが顕著で、その過程において元々の自らの特性を決して損なうことはないと言うが、そのあたりはだんだん怪しくならないかとの危惧を感じている。
 
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