熊野古道から便石山へ
2012/5/13

青春18きっぷで紀伊半島を一周したとき、紀伊長島駅の乗り継ぎの時間待ちに駅前の観光地図に目が釘付けになった。何だ、この山は、アーチ状の巨岩の上に立つ登山者、背景は真っ青な熊野灘、便石山(びんしやま、599m)というのがその名前だった。全く聞いたこともない名、こんな面白そうな山があるなら是非登ってみたい。標高は高くないから暑くなる前がいい。熊野古道が越える馬越峠(まごせとうげ)から往復できるようだ。熊野古道ならカミサンも行くかも知れない。

最初は親戚の弔事、次は出発したはよいものの連れが体調不良、中止が続いて三度目の正直で熊野古道ウォーキングに勇躍出発、午前6時。伊勢自動車道が大内山まで伸びているのを先日見ていたので、伊勢経由のルートをとる。大峰山系・大台山系の間を抜ける国道169号という選択肢もあるが、尾鷲に向かう国道425号は長くて細い、山登り前に神経をすり減らすのは御免だから走りやすそうなほうを選んだつもりが…

国道369号は何度も走っているので勝手がわかっている。これは昔の伊勢本街道、集落のバイパスや峠道のトンネル化などで随分走りやすくなっいることも承知、でもそれは奈良県内だけのことだった。368号と名を変え、桜で有名な三多気を過ぎ、美杉から飯南への下りになって状況は一変、これは425号に匹敵する酷道だ。大型車通行禁止というのは言われなくても判る。うちのデミオだってギリギリのところが何か所もある。これは失敗、南側の中央構造線ルートの166号をとるべきだったなあと思っても後の祭りだ。もっとも425号、439号、157号など、名にし負う酷道は走破している自分なので嫌いなわけではない。それでも、暗くなって走るのは命知らず、帰りは絶対に166号だけど。

紀伊長島には夏休みに家族旅行で来たことがある。まだ世界遺産なんて話は露ほどもなかった頃だ。「紀伊山地の霊場と参詣道」という、すぐには覚えられない名前で世界遺産となってからのことなんだろう、国道42号の脇に大きな標識と駐車場が設けられている。鷲下というバス停がある。

すぐに大きな石畳の古道が登っていく。階段状ではなく斜めにフラットになっている感じだ。年月を経ているので石は安定していて歩きやすい。機械力が使えない昔に、こんな峠越えの道を整備するのは大変な労力だ。これは平安の時代の公共事業なんだろうか。千年を経て今に残るのは石畳のおかげだろう。有数の多雨地帯だから、歩かれなくなった途端に下草が繁茂し道はすぐに消えてしまうはずだ。

馬越峠までは1時間弱、古道を途中の夜泣き地蔵あたりまで歩いて引き返す人、峠で折り返す人、峠を越えて尾鷲側に下る人とさまざま。馬越峠は便石山と天狗倉山(てんぐらさん)の鞍部ではなく、天狗倉山の肩に近いところを越える。これが正しい道の付け方なんだろう。傾斜が極端にきつくなる箇所がなく、崩落のおそれのある谷筋を避ける昔の人の知恵だ。近代ともなれば、紀勢本線や国道42号のように谷の奥まで進んでトンネルで抜ける。そのトンネルの長さは車輪の粘着力と反比例する。今なら先行開通の紀勢自動車道無料区間のように長いベーストンネルを掘り最短で直線で結ぶ。この馬越峠のところは4つの交通路が並行していて、各時代の特徴がよく表れている(文末の地形図を参照)。まるで社会科(地理)や土木工学の教材のようだ。

さて、熊野古道歩きの人の姿が消えた便石山への道は、よく整備されているもののなかなかハードだった。馬越峠から最低鞍部まで下りが結構長く、そこからは高度差400mほどの急登が続く。天気が良いのはいいが暑くなり、汗で流れた日焼け止めを塗り直す。峠からは1時間半ほどの歩きだったろうか、ようやく傾斜が緩やかになったら山頂だ。林間で眺望はない。頂上から10mほど下ったところに件の巨石があった。象の背とは言い得て妙、「はっはっは」と思わず笑いがもれる絶景だ。例えてみれば、尾鷲湾に突き出した船の舳先に立つような感じ。てっぺんまで登り下を見下ろすと垂直に切り立っている。てっぺんに行くにも滑らないように細心の注意が必要。快晴なので問題ないが岩が濡れていると危険だ。鎖も柵も一切ない。方向転換は慎重に行う必要がある。カミサンは怖がって岩の端っこにカエルのようにへばりついたままだ。大丈夫だよと言っても登ってくる気配なし。そう言えばカミサンは吊り橋も苦手だった。

馬越峠に戻るのは登り直しがあるので鬱陶しいところだが、海山オートキャンプ場へ下る道があったので一も二もなくそちらへ。北に向けて階段状の道を下る。1時間あまりで広い河原に到着、長い吊り橋を対岸に渡ったところが種まき権兵衛の里、前に来たときは閉まっていて中には入らなかったが今日はオープンしている。無料開放。庭園や権兵衛屋敷があるようだ。と言うのも、ここに歩き疲れたカミサンを残し、私は車をとりに鷲下まで。「権兵衛が種まきゃ、烏がほじくる…」という権兵衛は実在の人で、この三重県北牟婁郡紀北町海山区便ノ山に住んでいたらしい。遺徳を称える施設のようだが古道とは対照的に訪れる人は少ないようだ。

カミサンが鯉に餌やりなどをしている間に車道歩き。前に来たときにも見ているはずだが、振り返ると便石山、登った山とそうでない山では見え方も違う。このあたり、平成の大合併までは海山町だった。その名のとおり海と山の町、東南海地震が起きたら津波が川を遡ることになる。東北の地震のあとに設置されたんだろう、高台に向かう道筋には随所に海抜○mの標識がある。海に近いところに住む人にとっては不安を抱きながらの生活だろう。

カミサンを拾って帰路につく。国道166号は、局ヶ岳に登ったときに高見峠を越え飯高まで走っているので問題のないことは判っていて安心だ。往復で350km、尾鷲までの長駆日帰りとなった。運転は楽しみのうちだから苦にならないにしても、海抜0mに近いところからの山登りはかなりのアルバイトである。「熊野古道の山歩きだと思っていたのに、山登りだった」とはカミサンの弁。べつに騙したわけじゃないのになあ。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system