雲雀山 ~ ウォーキング+温泉+テッちゃん
2013/1/6

青春18きっぷの使用期限が迫ってきた。片道1150円以上で山登りができないかと検討、あったぞ、あったぞ。温泉と乗りテツまで楽しめるコースを見つけた。いざ、出発。

小学生と同じで、遠足の朝は早起き、まだ明けやらぬうちに自宅を出る。天王寺駅を6:50に出る紀伊田辺行に乗車、大概は和歌山での乗り換えだけど、この列車は直通、8:30に紀伊宮原に着く。ここは有田市。駅には海南から紀伊宮原、紀伊宮原から湯浅という二つの熊野古道のハイキングマップが置かれている。

私が目指すのは湯浅方面だが、熊野古道を辿るわけではない。雲雀山という里山から尾根伝いに栖原(すはら)の海岸まで歩き、温泉で汗を流し、湯浅の古い街並みを散策のあと、余勢を駆って御坊までJRで南下、日本で一二を争う短い私鉄、紀州鉄道に乗るという盛り沢山なコースだ。こういうことができるのも青春18きっぷのおかげ。

紀伊宮原駅から有田川を渡り、得生寺、そのすぐ先の糸我稲荷神社までは熊野古道に沿う。この得生寺は中将姫ゆかりの寺とのことで、有田市のホームページには「天平19年(747)に右大臣藤原豊成の娘として生まれた姫が、13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています」とある。境内の開山堂を覗くと、中将姫の座像が祭られている。5月の会式は賑わうらしいが人の気配もなく静まっている。対照的に、すぐ近くの稲荷神社は初詣の人があるのだろう、御神酒が用意されていて、「自由に拝受して下さい」との表示、こういう謙譲語の使い方はちょっとおかしい気もするが、遠慮なく拝受する。ウォーキングの前だし、ちょっとだけ。当たり前のことだけど。

稲荷神社のすぐ先で熊野古道から山道が分かれる。古い石柱は「ひばり山道」と読める。でも、これは山道なのか、みかん畑を縦横に走るモノレールの軌道の脇に歩道があるという趣だ。麓から里山の上までみかん畑が連なるのは、ここが有田みかんの本場だから。収穫はほとんど済んでいるようだが、少しは残っている。道の脇にも充分食べられそうなのが落ちている。

中将姫ゆかりの遺構が山道に点在する。宝篋印塔の脇には親子対面岩、中将姫庵の跡、山頂は御本廟となっている。遺構が多いのは当然にしても、比較的新しい石標が建てられているのは何故だろう。熊野古道が世界遺産になったことを受けて、整備したということかも知れない。しかし、家に戻って調べてみたら吃驚、中将姫が捨てられた雲雀山は他のところというのだ。しかも、奈良県宇陀市、なんと私の生れ故郷ではないか。榛原町、大宇陀町、室生村と合併する前は菟田野町になるが、そこの青蓮寺という寺の裏山が日張山、こちらが本当とする説が有力とか。こうなると邪馬台国論争みたいだが、有田市が何かとPRに努める背景にはそんな事情もあるのかも。もう一つの雲雀山にも登ってみなければ。

山頂にはどこにも雲雀山という標識はない。伊藤ヶ嶽という、201mの山にしては大層な名前を刻んだ石柱がある。標高の割には高度感があり眺めもいい。登ってきた方向に有田川に沿ってわずかな平地が広がる。周りの山は全てみかん山だ。雲雀山の南側も直下までみかん畑だ。このみかん山には急な農道に加えてさらに急なモノレールが張り巡らされている。折しもエンジン音がしたかと思うと、急斜面を1台の車(と呼んでいいのか)が上がってきた。

「穫り入れですか」
「落ちてるのを集めてるんですわ。ここらはだいたい去年のうちに収穫してますけどな。下津のほうやと、蔵出しみかんゆうて、寝かしといてこれから出しますけどな」
「そうなんですか、それでほとんど残ってないんですね」
「伊藤孫右衛門さんの木のとこには行かはりましたか。もう初代の木はありませんけどな。こっちの下のほうですわ」
 おじさんにそっちの方向まで案内していただく。ずいぶん下のようだ。そうかここが紀州みかん、分けても有田みかんの発祥の地だったか。

雲雀山から先は農道となる。モノレールで集めて、農道づたいに軽トラックで運ぶのだろう。尾根沿いに道は続いている。しばらく行くと糸我峠、ここで熊野古道とクロスする。糸我から登ってきた道が峠を越して湯浅に降りる。川沿いから海沿いに変わる訳だ。熊野古道は海岸沿いではなく少し内陸の峠をいくつも越していく。昔の人の徒歩旅行もなかなか大変だったろう。

この糸我峠で、白河上皇が輿から降りて休息したとき、お供をしていた平忠盛が、紙園女御が男子を出産していたことを「いもが子は はふ程にこそ なりにけれ」と歌に託して報告すると、「ただもりとりて やしなひにせよ」と院が下の句を付けたというから、平清盛落胤説の真偽はともかく、よく出来た話ではある。年末の総集編を見たばかりだから、つい伊東四朗と中井貴一の顔が浮かんでしまう。あっちはもっとドロドロとした話の造りになっていたけど。

その先、役行者が祭られている鹿打坂峠を過ぎると、稲荷神社の本宮が稜線上にある。この糸我稲荷が日本最古のものだという。何だか古いものがいっぱいあるウォーキングだ。そして、だんだん海に近づく。農道とはいえ、車なんか全く走らないのでのんびりしたものだ。ときおり銃声があり吃驚するが、イノシシ猟の時期なのか。くくりわなに注意などという看板もある。そういえば雲雀山の登りでは動物の糞を踏んでぐにゃっとした感覚があった。

ウォーキングの最後のスポットは明恵上人の行場だ。ここへの道が判りにくい。農道がみかん畑の中を縫い、山道に入ったかと思うとまた農道、遠回りしたような感じたが、ルートを外したわけでもなさそう。東白上遺跡と西白上遺跡と2箇所あって、その振り分けのT字路に出た。東西それぞれに碑が建っている。最初は西で修行したのだが、波音がうるさくて東に移ったとか。確かに湯浅湾を望む岬といってもいい場所だ。湾に浮かぶ小島でも修行に勤しんだとか。

西の行場から下れば施無畏寺、ここも人影がない鄙びた寺だ。栖原の船溜りを横目に小学校の裏手に回ると一軒家の栖原温泉がある。玄関を入ったら右手が番台のようになっていて日帰り入浴300円也。これはまるで銭湯料金、由来を読んでみたら納得、近所で貰い湯が当たり前の時代に、この家の風呂はちょっと違うという評判となり、調べてみたら温泉、それで旅館をということになったという。漁港も近いから釣人が泊まったり、この季節だと名物のクエを目当ての観光客も来るのだろう。もっとも、誰でも知っている白浜だとかに比べると知名度が格段に落ちる。それで、紀州の隠れ湯というキャッチフレーズとなる。

3人も入ればいっぱいの浴室、さすがに温泉だけあって肌がすべすべになる。ドライヤーも備えられていないので湯冷めを心配したが、玄関脇のロビーで寛いでいるうちに洗い髪も乾いた。

小さな峠を越えると湯浅の町、金山寺味噌、そしてここが発祥という醤油の店が重要伝統的建造物群保存地区に並ぶ。そして目を引くのは「大地震津なみ心え之記」の碑、嘉永七年(1854)に起きた地震・津波の被害を伝え、その約150年前、宝永四年(1707)に起きた地震の例を引きながら戒める内容だ。でも、それというのは嘉永七年から約150年後の人のために彫られたものなのだから21世紀の人に向けたメッセージということになる。言わずもがな、東日本大震災を見た人たちには切実すぎるものだ。

古い街並みの玄関先に無人販売、みかんと橙の袋を各100円で買ったらリュックに入らない。仕方なく手にぶら下げて駅に向かう。大阪方面とは逆、下り列車で御坊へ。3つ目の楽しみ、乗りテツだ。

御坊の駅のホームの端に紀州鉄道の車両がやって来る。電車じゃない。1両でワンマンだから線路がなければまるでバス、中に入ればシートは破れてつぎだらけ。こりゃなかなかのものだ。動き出したら揺れも酷いから保線状態が知れる。あの銚子電鉄のほうがまだマシなぐらいだ。通勤・通学の利用があるのだと思うが、休日のこと、ガラガラ状態、御坊駅を出ると、学門、紀伊御坊、市役所前、西御坊と、わずか2.7kmの路線を自転車並みのスピードで走る。終点の西御坊駅は駅名標こそ真新しいが、駅舎は傾き、廃線の名残と言われても納得してしまうほどだ。

折り返しまでの時間、駅の周りをうろついていたら、立派なカメラを抱えたテッちゃんが話しかけてきた。こちらもデジタル一眼を手にしたご同輩と認めてのことか。このお宅は同乗していなかったので、車で回る廃線マニアと見受ける。

「この先、600mぐらい、まだ線路が続いていますわ。前は日高川という駅が終点だったので、駅舎も残っていますよ。この道路は支線の跡で、今は線路はないですけど、大和紡績の工場まで引き込み線があったようですよ」と、詳しく説明してくれる。

なるほど、鉄道橋こそなくなっているが、住宅の間を線路は先に伸びている。撤去するのも費用がかかるので放置ということだろう。今の紀州鉄道という会社は、不動産業の信用力補完のために御坊臨港鉄道を県外資本が買収したものだから、鉄道経営への熱意など露ほどもないということなんだろう。しかし、鉄道の看板を下ろすことは出来ないから、地元にすれば廃止を免れているという微妙な関係があるようだ。帰路、和歌山駅で乗り換えたとき、駅構内の通路や階段に猫の足跡がいっぱい貼られていて、たま駅長の和歌山電鐵貴志川線のホームに誘導しているのを見るにつけ、やる気の有り無しが天地ほど違うのに驚く。

青春18きっぷの使用期限に迫られて、出かけた紀州路、山歩き、温泉、乗りテツと、てんこ盛りの一日となった。

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