ふるさとハイキング 〜 知らなかったものを見る
2016/10/29

近鉄が主催するハイキングにはずいぶん行ったので、駅のパンフレットをもらっても目新しいものは少なくなった。そんななか、目にとまったのは室生口大野から榛原まで歩くコース。榛原は私の生まれた場所なので、ここ何年かの間に近隣の山登りやウォーキングには何度か出かけているが、今回は榛原空襲跡というものが行程にあった。榛原に空襲、そんなことは聞いたことがない。行ってみよう。

スタートの室口大野駅までは車で行く。近鉄には悪いが、乗換2回で行くより、名阪国道と農免道路を走って行くほうが速い。駅でコースマップをもらって、磨崖仏を望む大野寺の無料駐車場に車を置いて出発だ。最後に榛原駅から一駅、電車に乗るからご勘弁を。

前に室生古道を長時間歩いて草臥れた思い出がある。翌日に血尿が出たのだから、あのときは無理をしすぎた。でも、今日のハイキングは楽々コースだ。30分もかからずに到着する室生ダムは初めて。昭和49年に完成というから子供時代に榛原に住んでいた頃にはなかったものだ。思ったよりも大きい。
 室生ダムから榛原の街までは、車の多い国道165号を歩くのでいまひとつ。途中、周りの長閑な農村風景から浮いたような建物が並んだ集落がある。空き家も多くて、ああそうなのかと思ったら、やはり集落のはずれには、"村民の力で「部落解放基本法制定」"という看板があった。子供の頃に聞かされた記憶はないが、今の宇陀市のエリアには被差別集落がいくつかあるのを大きくなってから知った。奈良県は水平社発祥の地だ。至る所にそういう集落がある。
 昭和40年代以降、学校でも企業でも同和教育が継続されている一方で、逆の方向で酷い目に遭った人の話も聞くこともある。それなりにステイタスを得た出身者に時として見られる過剰な攻撃的傾向が、社会に潜在的な恐怖を醸成するのは互いに不幸なことだと思う。

国道脇に葛神社という社がある。小山を登った上に本殿、ここでちょっと一休み。さらに行くと、山辺赤人の墓への分岐を示す石標がある。あれは大和富士の麓、田圃のはずれの簡素な石積みの塔で、何度か訪れている。

やがて、農村風景から住宅街の端になって風景は一変する。丘陵地帯を拓いて開発された天満台住宅地に入る。ここの住人は地の人ではない。会社にいたころ、ここに戸建てを購入して住んだ人がいて、冬の寒さに音を上げていたことを思い出す。周りを山に囲まれた内陸の盆地、300m以上の標高があり、積雪も珍しくない。きっと、大阪の職場と新居の落差に驚いたに違いない。田舎暮らしは都会人が思うほど良いことばかりではない。

この日のハイキングは宇陀市総合体育館で開催されている「うだ産フェスタ2016」に合わせたものだ。会場に入ると屋外のテントでいろいろな食べものが販売されている。大和当帰葉カレーという、薬膳なのだろうか、グリーンカレーに仕立てたものを200円でいただく。そして、嬉しいのが奈良カエデの郷「ひらら」という団体が行っているカエデの苗の無料配布、イロハモミジを一本頂戴する。わが家の猫の額のような庭にでも植えてみるかな。荷物になるが残りの行程はわずかだし、帰りは車に積めばOKだ。

体育館を後にして榛原駅に向かって坂道を下っていく。伊勢本街道と初瀬街道が分かれる角に旧旅籠の「あぶらや」がある。今は文化財として内部公開されていて中に入ることができる。ボランティアの人だろうか、案内してくれる人が一人いる。聞けば、持ち主が住居として私用していたものを、平成24年に宇陀市へ寄贈されたそうだ。道理で、前に来たときには内部を見ていない。

そんなに大きな建物じゃないのに、二階の座敷にはお膳がたくさん並んでいる。これだけの人数が宿泊したら、まるで夏山最盛期の山小屋並みだ。昔の人は小柄だったのだろう、さほど背が高くない私でも鴨居に頭を打ちそうだ。階下の竈が撤去された土間には室内に井戸がある。

今でいう団体ツアー、ここは当時の伊勢講の人たちが多く泊まった宿だ。嘉永年間の宿帳が展示されている。そろそろ出ようとしたとき、一階の座敷に架かっている額入りの日本手拭いに目が止まった。あぶらやと、背景に額井岳を描いたシンプルな絵柄で気に入った。
「あの手拭いは、どこかで売っているんですか」と案内の人に尋ねる。
「このちょっと先の池田さんに置いてあるはずですわ」とのこと。

さて、その池田家、古い町屋で伊勢本街道保存会事務局にもなっている。表には無人の芋販売があるのに、家は閉まっている。これじゃ手拭いを買うことも叶わず。残念ながら、諦めるしかない。
 この池田家はあぶらやから近鉄のガードを潜った先にある。そのガードというのが榛原空襲跡だった。

戦時中、奈良で空襲があったなんてことは、全く知らなかった。終戦の年の7月のことらしい。走行中の近鉄電車をめがけての機銃掃射、車内では多数の人が亡くなったらしい。その際の弾痕がカードのコンクリート壁に刻まれている。10個以上はあるだろうか。戦闘機に搭載された機関砲だから、当たれば即死だろう。
 大阪府下の小学校に通っていた頃、担任の先生から機銃掃射を受けた体験談を聞いたことがある。パイロットの顔が見えたという。子供に引き金は引かなかったのか、無事に済んだとのことだった。お寺の息子だったその先生に、仏様の加護があったのかも知れない。戦後10年あまりの頃、そんなような話はいっぱいあった。もう戦後70年は過ぎ 、戦争を知らない人が大多数になった。時代を経た頑丈なコンクリート壁に形跡を留めるばかりということか。

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