「孤独な祝祭 佐々木忠次」を読んで
2016/12/17

しばらく前に訃報に接し、この人がここ数年、表舞台から姿を消していたことに思い至った。佐々木忠次氏は、「オペラチケットの値段(1999年)」、「だからオペラは面白い 舞台裏の本当の話(2000年)」、「起承転々 怒っている人、集まれ!(2009年)」を上梓し、海外著名歌劇場の招聘にかける情熱を吐露するのと同時に、新国立劇場に象徴される国内オペラ界への仮借ない批判を展開していた。私は、それらの本を興味深く読んだ一方で、かなり独善的な物言いに抵抗を覚えたものだった。何もそこまで悪し様に言うほどのことか、この人が理解されにくいのも故ないことでもないとの印象が残った。次に佐々木氏はどんなことを書くだろうと思っていたら、不帰の人となったとの報、言い足りないこともあっただろうが、オペラがらみの著作は上記三部作で終わってしまった。

この本は佐々木氏の著作ではない。追分日出子氏による評伝である。逝去から時を経ずして出たので、ずいぶん手回しのいい追悼本かと思ったが、生前から綿密な取材を進めていて、たまたま出版がこういう時期になったようだ。安直な便乗本にありがちなヘンな日本語や誤字もないし、その種の本とは一線を画している。本の中で著者が述べている次の言葉、これはまさに佐々木氏に関する私の印象そのものだ。著者は佐々木氏の業績を高く評価する一方で、冷静な客観者としての眼を保っている。

佐々木は後年、「私の舞台芸術人生は、誤解、無理解、不当、不正、理不尽との闘いの連続だった」と書いたが、理不尽に対する過激さは尋常ではない。他方、佐々木には常に自分の正義が絶対と思い込む傾向があったことも確かである。その思い込みが、彼の原動力になった一方、彼を孤立させ孤独にもした。世界を狭くしたといってもよい。

この本の副題は「バレエとオペラで世界と闘った日本人」となっている。同じく舞台芸術であるものの、二つの世界への佐々木氏のアプローチはずいぶん異なる。私の眼にはそれがダブルスタンダードと映る。

佐々木氏は、裏方としての仕事でNHKが招聘したイタリアオペラにも関わり、舞台の世界に足を踏み入れたあと、東京バレエ団の主宰という立場となり同団体を世界の檜舞台に押し出すとともに、海外の著名振付家やダンサーとの連携を進めていく。バレエ界でのサクセスストーリーに、この本でも多くの紙幅が割かれている。
 一方のオペラについては、ミラノスカラ座やウィーン国立歌劇場などの招聘において、ソリスト、指揮者に留まらずオーケストラ、コーラス、演出、装置、衣装等、歌劇場まるごとの引越公演を実現し、最高水準のプロダクションを日本に紹介したというのが最大の功績だろう。

私はバレエにはあまり興味がないので、斯界での佐々木氏の事績を正しく評価できる材料を持ち合わせていない。しかし、自らバレエ団を率いて、まさに「世界と闘った日本人」としての軌跡は、この本や前述の佐々木氏の著作からも充分に読み取ることが出来る。
 対照的に、オペラに関しては海外著名歌劇場の招聘で発揮した豪腕は余人をもって代えがたいものであるにしても、本場の最高のものへの無条件の信奉であり、国内の事情や歌手たちの才能に一顧だにしない姿勢には違和感が拭えない。
 ことほど左様に、バレエとオペラ、両分野での立ち位置がずいぶん違ったような気がする。バレエについてはまさにインプレサリオ、ところがオペラに関しては芸術指向の中に、氏が忌み嫌った「呼び屋」の色が混入していたように思う。この本に、次のようなくだりがあり、そこでディアギレフ(ロシアバレエの稀代の興行師)の名前が出ていることが象徴的だ。

インプレサリオという言葉にふさわしい日本語はない。プロデューサー的な資質をもった興行師といったところだろうか。単に海外からアーティストを呼び興行する、いわゆる「呼び屋」とは違う。佐々木のなかでは「呼び屋」とは、舞台も小豆相場も同質に考える人間、つまり芸術を理解せずに単に金儲けの道具と考える人間として厳しく一線を画して嫌った。それに対して、インプレサリオとは、その芸術を十分理解しディレクションもできる興行師。佐々木は、この頃、自分は「インプレサリオ」になるのだと自覚するようになる。そして、その象徴的な存在のディアギレフを意識するようになった。

佐々木氏が切り拓いた海外歌劇場の引越公演、カルロス・クライバーが指揮した公演の頃が絶頂であり、その後の水準低下は覆い隠せない。そして、模倣者による羊頭狗肉、ぼったくり的な興業が陸続となってからは、高額の席は招待客ばかりで愛好者は天井桟敷に犇めくという醜悪な図がバブル期以降しばしば出現した。佐々木氏のおかげで目と耳が肥えたファンは中途半端な引越公演にそっぽを向き、氏が天敵とした新国立劇場の公演が、水準の向上と相俟って盛況というのは大いなる皮肉と言うべきか。佐々木氏の死とともに、従来パターン(ビジネスモデル?)の引越公演の時代は終わりを告げるだろう。劇場もその空気も運べない。味わいたければ現地に行けばいい時代なのだし。

いま、大枚を叩いても観たい引越公演があるとすれば、ミラノスカラ座ぐらいだろうか。新国立劇場のコーラスは今や世界最高水準だから、他所から呼ぶ必要などないし、ウィーン国立歌劇場にしてもオーケストラの出来不出来が激しい。新国立劇場に登場する旬間近の海外ソリストが、その後本場でスターダムに登るケースも稀ではなくなったし、すでに海外で活躍する内外ソリストが新国立劇場の舞台にも立つようになっている。このあたり、佐々木氏がバレエの世界で実現したことに、新国立劇場のオペラが近づいているとも言える。これは、佐々木氏のような強烈なアンチがいたからこそ成ったわけでもあり、壮絶なバトルの末に、とうとう国を動かしたとも言える。まさに大いなるパラドックス、なんだか複雑な思いがあるが、氏の功績として高く評価されるべきだろう。「棺を蓋いて事定まる」と言うが、ことオペラに関しては、この人の場合はまだしばらく時間がかかるだろう。

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