こちらもディープ大阪 〜 初めて通天閣に登る
2017/1/14

キタでもミナミでもない、阿部野界隈はとらえどころのない街だ。ミナミで中学高校時代を過ごし、キタで働いた私にとって、天王寺・阿部野橋周辺はあまり馴染のない土地だ。もちろん、子供のときに天王寺動物園に行ったことはあるはずだが、遠い記憶を辿っても思い出せない。

日本海側では大雪、近畿中部でも雪に注意という週末、家に籠もって過ごすのかなと思っていたら青空となる。気温は低いが、お出かけだ。近鉄のハイキング情報誌に載っていたイベント、一人では行きにくい場所を訪れることにする。昔のイメージだと悪所の代表格、新世界へ。まあ、その点ではミナミも大差ないとは言えるけど。

近鉄阿部野橋駅地下コンコースがスタート、南東側の松崎口を出る。あべのハルカスのある繁華街とは反対の方向だ。こんなところに来たことはないぞ。知らなかったが、ここは辻調理師専門学校の本拠地のようだ。いつくもの建物があり、調理師の卵たちが学んでいる。小洒落たカフェ風のパティシェ養成の専門校がウォーキングのコース沿いにあり、なかの様子が窺える。こんなところで修行しているのか。

コースは南に下り文の里を経て桃ヶ池公園へ。JR阪和線の高架から見えているのはこの公園だったのか。歩いてみないとわからないこと。ここから西に転じて北畠公園本通商店街を抜ける。
 北畠という地名で思い出した。あの銀行はまだあるんだろうか。三菱銀行北畠支店、昭和54年に起きた銀行強盗、人質・殺人事件の現場となったところ。もちろんウォーキングコースのマップにそんな記述があるはずもない。ちょっと順路を外れるがあべの筋を500mほど南下してみる。すると、昔のニュース映像で覚えのある建物が。あれから銀行の名前も二度変わり、当時の行員たちのほとんどは定年を迎えているはず。何人かの死者が出て、犯人も射殺されて決着したのだが、長時間の籠城と犯行の猟奇性で世間を騒然とさせた事件だった。若い世代には無縁な話だが、当時を知る世代にはネガティブな記憶はなかなか消えないものだ。

元に戻って北畠顕家の墓、「神皇正統記」を著した北畠親房の長男が顕家、その墓かどうかはあやしいところもあるようだ。伊勢の山登りの帰りに北畠神社に立ち寄ったことがあるが、あちらは親房の三男の北畠顕能から始まる。すると、顕家は足利勢に敗れて戦死しても、一族は伊勢で生き延びたということか。

この先、ガイドマップには何の説明もないが、テッちゃんとしては興奮の路面電車2路線を横切るルートとなる。先ずは阪堺電車の上町線、そして阪堺線だ。上町線は天王寺駅前の路面、あべのハルカスの真下から出るのだから、超高層とチンチン電車というものすごいギャップだ。明治30年5月設立の大阪馬車鉄道株式会社が阪堺電気軌道株式会社の前身になる。続いて阪堺線、こちらは日本橋電気街の南端の恵美須町が起点だ。このあたりでは専用軌道を走っている。複線なので少し待つと電車がやって来る。先を急ぐハイキング参加者が通り過ぎるなか、踏み切りでカメラを構える私。

天下茶屋駅の高架を潜り国道26号を北上する。東京の友人と話していて、あちらの人は「天下茶屋」を正確に発音できないのを知って驚いたことがある。「てんがちゃや」と読むことを教えても、何度口移しで練習しても正しいイントネーションではまず言えない。これは大阪人かどうかの試金石みたいなものだ。
 この天下茶屋から北に向かうと、「橘」、「松」、「花園」という交差点が続く。どこにもそれらしいものがない殺風景な場所だけに、何だかおかしい。
 ごちゃごちゃした街歩きにも飽きてきたので、ちょうどやって来たチンチン電車を今船停車場でつかまえる。フリーハイキングなので、何でもありだ。あっという間に終点の恵美須町に到着。

恵美須町は新世界の玄関口、通天閣に向かって斜めの直線路が延びる。駅前に路上生活者が寝転んでいるが、この寒さのなか大丈夫なんだろうか。ホームレスには厳しい寒波だ。観光客の姿は多くはないものの、中国語や韓国語が飛び交っている。通天閣へは地下の入口から入る。普段の週末はどうか知らないが、今は15分待ちとのこと。大人700円、学割があるのにシルバー割がないのが理不尽だなあ。

エレベータで5階に上る。100mほどの高さしかないから、近場のあべのハルカスには遙かに及ばない。しかし、眺めはなかなかのもの。周辺に高層ビルが少ないということもあるし、四方の展望が開ける。真下は天王寺公園、そして動物園、キリンの姿も見えるぞ。西は大阪湾から六甲の山並み。それよりも興味深いのは、すぐ下の街並みだ。新世界界隈は低層の建物が連なり、ビジタルと称する簡易宿泊所が林立する。路上で生活する人たちは、何らかの理由でここに泊まるほどには日銭が稼げないということなのか。
 東京オリンピックや災害復興で長期滞在者が減ったのを埋めるように 、LCCで来日する人たちに向けた模様替えも進んでいるようだ。バックパッカーたちにすれば格安ホテルということ、施設の来歴など知る由もないだろう。なんだか、東京の蒲田界隈のラブホテルが、料金の安さと部屋の広さを売りに海外からの客を受け入れているのと通じるものがあるなあ。ともあれ、商売はダイナミックに動いていく。

死んだ父親は、新世界、ジャンジャン横町のことをよく話していた。大正生まれの世代にとっては、ずいぶん楽しい場所だったのだろう。私が大阪に通学していた1970年代の前半、この周辺一帯は、学生、ましてや女子供が行くような場所ではなかった。年中行事のように、近場の釜ヶ崎では暴動が起きていた。「じゃりン子チエ」の舞台になっているのもこの近くだ。どこの大都市でもこんな場所はあるが、当時の大阪はちょっと特殊だったような気がする。食い詰めた人々を吸引する磁力のようなものが、ここにはあったような。生活保護を受ける人の数が全国一、いいのか悪いのかよくわからない指標だが、そんなところにかつての名残があるようにも感じる。 

新世界に来たら、やはり名物を試してみなくては。通天閣の真下にある串カツ屋「だるま」の前には列ができている。ここが老舗なんだろうか。寒空に並ぶのも辛いので、少し離れたジャンジャン横町の姉妹店に入る。想像していたのと違い、すこぶる健全な雰囲気、きっと自分のイメージが古すぎるのだろう。店内はカップル、家族連れ、女性グループも多くて、オッサンが焼酎やホッピーをぐびぐびやっている図ではない。これなら、西荻窪駅前の居酒屋「戎」が立ち並んでいるあたりのほうが、よほどそれらしい。
 適当に串を何本か頼みジョッキを上げる。単価がだいたい105円というのは、安いのだろうけど衣が厚くて、それでお腹いっぱいになってしまいそうだ。表面のパン粉は細かくてベタッとした感じなので、あまり私の好みではない。すっかり有名になってしまった「二度づけ禁止」のソースは各人の前に置かれる。客が入れ替わると、中に残ったパン粉の屑やキャベツの切れっ端をすくって、次に供するというシステム、合理的といえばまさにそのとおり。やっぱりソースはこれだなあ。初めて東京で暮らした大学生のとき、食堂には甘ったるい中濃ソースしか置いていなくて、「何だ、こんなもので食えるか」と思ったものだ。その頃に比べると、食べものの東西差はずいぶん縮小している。

さて、お腹もふくれたところで、このハイキングのサブタイトルになっている四天王寺の「どやどや」を覗いてみる。ピンク映画館のある怪しい裏通りを足早に抜けて25号線を東に向かう。四天王寺の西の入口のそばには、日本どころか世界最古の企業、「金剛組」のビルがある。何も知らない人だと見落とすのが普通、もし看板が眼に入ってもその筋の事務所かと勘違いしてしまうだろう。四天王寺の門前というのはいかにも宮大工らしい。

「どやどや」とは、そもそも何だ。ちっとも知らずに来ているのだから、困ったもの。これは、新年から行われている修正会結願法要の行事で、褌一丁の若者が紅白に分かれて御札を取り合うのだそうだ。色々と変遷があって、今は指定の高校の生徒が出場するらしい。清風高校と清風南海高校、家族なのか友だちなのか、そんな人たちを中心に人だかりが出来ている。この冬将軍到来の下で裸とは、高校生のこととて飲酒は御法度だろうし、寒くてたまらんだろう。それに、男子校とはいえ、恥ずかしくて仕方がないのでは。折しもセンター試験の日だ。すると、3年生は不在ということか。
 目の前を裸の一群が進み、六時礼讃堂という建物の中で争奪戦が行われるようだ。なんと、本殿の前では彼らに水を浴びせているぞ。揉み合いの摩擦軽減の意味合いらしいが、裸の上に冷水とはねえ。いやはや。若者は熱気むんむんかも知れないが、観ているこちらは余計に寒くなる。この模様は夕方のローカルニュースでやるだろうから、風邪を引かないうちに退散だ。

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