府庁山探訪 〜 遡れば、昭和3年
2017/6/17

奇妙な名前の山がある。「日本国」という名前の山もあるぐらいだから、この程度で驚いてはいけないが、「府庁山」とは変わった名前だ。大阪府河内長野市に実在する600mほどの低山。"梅雨の中休み"ならぬ"梅雨のずる休み"なんて言われたりしている晴天の連続、7月の夏山に向けた足慣らしで出かけることにした。

ここに登る人もいるようで、昭文社の登山地図にもコースが書き入れられているし、ちょっと詳しいガイドブックなら載っている。南海電車の千早口から天見まで周回するのが一般的なようだ。ネット上にも個人の山行記録が多数ある。私はその逆コース、天見駅から歩き出して、東の石見川沿いの小深に下山するつもりだ。ただ、そんなレポートは見当たらなかった。

天見駅は無人駅、待合室には周辺の観光パンフレットが置かれているが、これから登る旗尾岳や府庁山の記載は一切ない。それだけマイナーな山ということが知れる。駅の横の踏切を渡って東側の谷に入る。10分ほど行くと左に旗尾岳への道が分かれる。登山地図にも実線表示されているだけにしっかりした道が付いている。

林間の道は徐々に勾配がきつくなって、やがて尾根に達する。1/25,000地形図の破線は誤りだ。なかなかこんなところまで現地踏査はできないし、地元自治体の情報をあてに記載するとよく起きることだ。逆に航空写真で確認できる送電線の位置は正確だ。これも、平成25年式の新しい地形図では削除されそうになったものが、強い反対で生き残った経緯がある。それを頼りにするわけではないが、確かに人里に近い山だといい目印にはなる。

大概は植林帯だが、送電線の鉄塔周辺は切り開かれていて展望が得られる。そんな日当たりのいい場所にササユリ、群落とまではいかないが随所に見かける。1時間ほどで辿り着いた旗尾岳は林の中。天見富士の異名にはちょっと疑義がありそうだ。ここから東へ稜線を進むと、向こうから中年登山者が一人。

「どっちから登って来たんですか」
 「天見からですよ。そちらは」
 「千早口からクヌギ峠経由です。蜘蛛の巣が多くてねえ」
 「いや、こっちも多くて。でもこれからは、だいたい取れてますから」
 「ははは、こっちもですよ」

誰もいないと思っていたのに、別の登山者とすれ違うとは。蜘蛛の巣も掃われていてお互い助かるというもの。この人は標準ルートで来たようだ。小深への降り口は判らなかった由。ということは、この先、しっかり地図読みしなくては。

案の定、府庁山から先の分岐地点と思しき箇所に標識の類はない。1/25,000地形図と勘を頼りに北東方向に折れ、登山道とも山仕事の道ともつかぬ急斜面の踏み跡を伝って小深口バス停に無事辿り着いた。こっちから登れと言われても、ちょっと気付かないような登り口だ。

さて、小さなアップダウンを繰り返して到着した府庁山山頂には三角点があるわけでもないし、地図に独立標高点の表記もない。等高線の具合からほぼ標高610mと推定できるだけだ。樹林に囲まれたわずかな切り開きの真ん中には背の高いスギが一本。その足元には近くの尾根筋でも見かけた、一文字「府」と彫り込まれた標石、なるほどいかにも府庁山らしい。

そもそも、どうしてこんなヘンな名前が付いたのか、ガイドブックには「大阪府がこの山一帯を借り上げて植林を行ったことから府庁山と呼ばれるようになった」という類の記述があり、ネット上ではその引用と思しきものが目につく。

なんとなく府庁山の命名の謂れは判ったのだが、それはいつ頃のことなんだろうか。府庁山一帯の樹木は年輪を重ねているから、昨日や今日のことではなさそう。ネット上をあちこち彷徨っているうちに、植林時期を1929年としているものが見つかったので、その頃に大阪府で何があったのかを調べてみた。

当時、大規模な植林事業を大阪府が手掛けたとすれば、必ず府議会に予算が提出されているはず、「大阪府會史」には「記念造林事業」の記述があり、昭和3年(1928年)以降10年間にわたり、府直営または府下町村への補助金として多額の支出が行われたことが記されている。10年間の総額は60万円を超え、現在の価値とすれば10億円超が投じられたことになる。今回、歩いた府庁山あたり、すなわち南河内郡天見村は、豊能郡枳根荘(きねしょう)村、北河内郡田原村、泉南郡東鳥取村と並び、最初期に事業化された場所で、昭和4年12月までに造林が施行されている。通常、スギの造林サイクルは50年と言われるので、既に90年近い年月を経ている現在、私が目にした植林帯は第二次のもののようだ。

昭和3年の府議会で決議された造林事業は、その年の11月に京都御所で昭和天皇即位の大礼が行われることに関係するものだ。大阪府では大礼に伴い、奉祝関連費用(117,317円)、警備関連費用(105,000円)、記念事業費関連費用を予算化し、記念事業としてはこの造林事業(初年度46,410円)のほか、労働者救護費、乳幼児保護施設費からなる社会事業(12,391円)の二本立てだった。
 即位の大礼は大々的な国家行事の位置づけで、府下の多数の人士が参加する行事関係費用の多さが目立つ。また、前年の名古屋地方特別大演習の際に起きた北原二等卒直訴事件(軍隊内の部落差別関連)の影響や、京都府隣接という地理的条件も勘案して警備関連費用も多額に及んでいる。

本論の造林事業に戻ると、府議会で当時の力石雄一郎知事は「永年に亙って事業を経営して或る事柄を記念する、殊に今回の如き御大典を記念し奉ると云うことに就ては、最もふさはしい自然の事業であると考へまする」と、説明している。 具体的には、大阪府下の公有林8700町歩のうち、無立木地粗悪地で至急植林を要するものが2000町歩存在するという調査に基づき、1000町歩を府直営で、1000町歩を町村への補助金支給にて10年間で事業を推進するという計画であった(1町歩=0.99ha)。さらに、造林事業の効果として、国土保安、水源涵養、外国材の輸入防止といった事柄が挙げられているとともに、50年後の伐採時には2000万円の収益を見込むとも力石知事は述べている。

確かに、一過性の記念事業ではなく、長いスパンを見据えた植林事業への府の取組は評価できることだ。しかし、その後に起きた、安価な輸入材の流入、林業の担い手の減少などにより、必ずしも企図したとおりにはならなかったようだ。今回、現地を歩いていても、間伐はされているものの横たわったままの樹木が散見されて手入れが十全とは言い難い。将来に向けて緑の山の景観は維持されたものの、この時期以降に植林された大量のスギのおかげで、春先の涙や鼻水という悩みを抱えることになってしまったのだから、ちょっと複雑なものがある。

もののついで、図書館で古い1/50,000地形図「五條」に当たってみた。昭和3年発行のものと、昭和36年発行のもので、府庁山一帯を対比してみる。これだけではよく判らないので、潤葉樹林を赤色、鍼葉樹林を青色でマークしてみた。確かに山の中腹以上では鍼葉樹林のマークの領域が広がっているように見える。あまり関係はないが、いま府庁山と呼ばれているピークの標高が616mだったり、607mだったりしているのが面白い。

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