摂津?河内?微妙な東大阪
2017/10/14

秋雨前線が活発になりそうな週末、起きてみたら降ってもいないしウォーキングに出かけることにした。山歩きのあとは街歩き、例によって近鉄の駅長お薦めフリーハイキングだ。今回は「菅笠の里と旧街道巡り」、普段は通勤途上で通過するだけの東大阪、河内永和駅からスタート。

駅から南に行ったところの都留彌(つるみ)神社を経て、かつての城東貨物線、おおさか東線のガードを潜り、近鉄大阪線の高架沿いに布施駅に向かう。駅の南には昨年亡くなった伯母の店があり、ここは子どもの頃から馴染みのある一帯なのだ。しかし、住んでいたわけではないので、知っている範囲は限られている。現に、駅の北側、ほぼ駅前といっていい場所に工作機械の中古販売をする会社が通り向かいにあるなんて、歩いてみなければわからないこと。さすが、中小製造業の集積度日本一の東大阪ということか。電柱には当地の世界的企業の看板も架かっている。

布施駅からは北に向かう。再開発された駅前に菅笠のモニュメントがあることも知らなかった。そもそも、なんで布施に菅笠、それは先に進むうちにわかる。コテコテの大阪という感じのアーケードの商店街を抜けて府道に出ると、向こう側に菅笠の絵に深江と書かれた看板が見える。この先が菅笠のところなんだろうか。

路地に入ると公民館のような場所に、「ここは摂津の国、笠縫邑(かさぬいむら)」と書かれた木の看板が掛かっている。はて、布施なんてバリバリの河内じゃないのかと解せない。しかし、ウォーキングコースに入っている深江郷土資料館に入って謎が解けた。ここは東大阪市でも従前の布施市でもなく、大阪市東成区なのだ。大阪市が東に張り出している部分、深江は道を挟んで東も南も東大阪市になる。つまり、摂津と河内のボーダーエリアということか。

ひと続きの町のように見えるこの辺り、国境という雰囲気は全くない。大正11年に刊行された「東成郡史」を紐解くと「神路(かみじ)村」として地誌が記されている。神武東征のルートと伝えられているので神路村ということのよう。曰く「郡の中央より稍北方に位し、東は中高野街道を隔てて中河内郡高井田村に接し、西は本郡中本町及鶴橋町に耕地を以て接し、南は中河内郡布施村及本郡小路(しょうじ)村等と奈良街道又は耕地を以て接し、北は千間井路(せんげんいじ)を隔てて本郡城東村に隣す」
 東成区自体は旧称の東生(ひがしなり)郡が示すように、古くは上町台地の東側の河内湾への堆積で生まれた土地で、東成郡が大阪市域となったのは大正の終わりのことだ。旧国名としては摂津なのだが、「東成郡史」には神路郡大字深江の通称として深江新家の項が設けられていて、そこに気になる記述がある。曰く「本村大字深江の南東部にして暗越(くらがりごえ)奈良街道の北側小字等に在る戸数五十餘の部落と同街道の南側中河内郡布施村大字東足代の戸数六十餘の部落を總稱す」

なるほど、それで私の感じるこの地域の一体性や連続性が腑に落ちる。それはともかく、歩いていてお腹も空いてきた。マップに示されたコースは深江郷土資料館から東に路地を進むことになっていて、建物の前では親切に案内してくれる人もいるが、「いや、ちょっと、高井田のラーメン食べて行きますわ」と暗越奈良街道に逸れる。伯母から「ここのラーメンは美味しいで」と聞かされていて、持ち帰りのものを一度食べたことがあるが、味の濃さが口に合わなかった遠い記憶がある。その再挑戦ということになる。何軒か並ぶ店のうち「住吉」という屋号の店に入る。表に待ち客用の椅子があるぐらいだから、ここが本命なんだろう。私はラーメンに詳しくないが、高井田系というジャンルがあるらしい。さて、そのラーメン、うどんと見紛うほどの超極太、叉焼ではなく茹で豚ではないかと思うパサパサ感のある豚肉のスライスが乗る。見た目は非常にシンプル、ベーシックな中華そばは500円という東大阪価格だ。確かにこの組合せだとスープがああいう味になるのはわかる。子どもは舌で食べるが、大人になると味覚の衰えを頭で補って食べる。近所の人なのか、持ち帰りの客が引きも切らない。熱々のスープを入れたペットボトルを提げて帰って行く。しかし、あの麺をゆがくのには相当時間がかかるだろう。

さて、深江郷土資料館に話は戻る。ここには地元の人間国宝、角谷一圭氏の茶の湯釜の展示とともに、菅笠や同じ素材で作ったコースターなどが並んでいる。笠縫という駅が近鉄橿原線にある。どうもそこの人たちが大昔この地に移り、菅笠づくりが行われるようになったらしい。館長らしい人がいろいろと説明してくれる。「ここは河内じゃなくて、摂津なんですか」なんて尋ねたのがいけなかったのか、それでスイッチが入ってしまったようだ。大嘗祭で使われる大きな菅笠はここで製作するらしい。今上天皇の退位のあと皇太子即位となれば、いずれ注文が来ることになり、自衛隊の飛行機で東京に運ぶことになるだろうとか。宮内庁御用達ともなれば宅急便というわけにはいかないらしい。もっとも宅急便のサイズだと超過するのかも。

再び「東成郡史」を見ると、「菅笠は<摂陽群談>に今東生郡深江村笠縫在て、世に深江笠と稱し名物とす。<摂津名所圖會>に名産深江菅笠。深江村及隣村多く莎草(ささめ)をもってこれを造る。只深江笠と稱して名産とす。又大阪の東深江の菅笠は上古より始りて、萬葉集延喜式にも見えたり、とあり。菅笠は摂津の産として往古より有名なりしなり」とある。つまり、「深江笠」というのがブランドであったことが知れる。大坂からお伊勢参りに向かう途上、まずここで菅笠を調達というのが定番だったらしい。布施駅前のモニュメントでは「網代(足代)笠」という呼称を用いて特産として説明されていたが、どうも東大阪の分は悪そうだ。準地元の私でさえ、この歳になるまで布施の菅笠のことなど聞いたことがない。先の深江新家が東大阪市に跨がっているのだから、そっちの方向からの説明で深江から足代一帯で作っていた「深江笠」でよかったのでは。現に、ラーメン店が並んでいる場所は東成区の端なのに、中高野街道を挟んだ東大阪市の地名を冠した高井田ラーメンを標榜しているのだし。

摂津をかすめて河内に戻る。この辺りには町工場が軒を連ねている。今ならここがいちばん東大阪らしいところと言えるかも。土曜日なので大概の工場は閉まっているが、中には機械を動かす音が聞こえる工場もある。ガチャガチャという音を耳に歩きながら考えた。深江で摂津をことさら強調しているのは「ここは河内とちゃいます、間違うてもろたら困りまんがな」ということかと。
 大阪市の南東部が少し河内だが、ほとんどは摂津に属する。ただ市内中心部で摂津と聞くことはないので、周辺部だけがそう言うのか。北摂という言い方もよく使われるが、あれは淀川の北、山に近いほうで言っている。摂津の北部ということだろう。では南摂があるかというと、それはない。ひっくり返した摂南という言葉はあるものの、これは地域名ではない。寝屋川の大学や門真の病院の名前に使われているが、それ以外にはあまり聞かない。両市はどちらも旧国名では河内、市制が敷かれる前は北河内郡だ。「南の摂津」ではなく、「摂津の南」という意味に違いないが、どうも河内という名称が忌避されたふしがある。確かに北河内大学にしたら「嗚呼!!花の応援団」の南河内大学と間違われそうだ。それじゃあまりにもイメージが悪すぎる。それ以前からも、勝新太郎、田宮二郎が演ずる「悪名」シリーズで、河内の名前が全国的になっていたということもあるだろう。今東光のおっさん(河内弁で和尚さん、いわゆるオッサンとは別義で、イントネーションが異なる)も罪作りなことである。小学生の頃から四半世紀あまり八尾に住んでいた人間にとって、河内には愛着こそあれコワいところでもなんでもないのだけど。

つまらないことを考えながら長瀬川に沿って南下する。これは旧大和川のひとつだ。近鉄奈良線を越えると大阪樟蔭女子大学のキャンパス、学内の図書館に田辺聖子文学館が併設されているので覗いてみる。著書がずらりと並んでいるのだが、私は一冊も読んだことがない。同じく河内小阪駅の近くに司馬遼太郎記念館があり、そちらは二度訪れているが、この作家の本も読んでいない。東大阪所縁の人気作家とはいえ、著作に興味があるかどうかなので、そんなことになるのかな。

樟蔭学園の施設になっている樟徳館、ここは帝国キネマ長瀬撮影所の場所、今回は近鉄のイベントに合わせて内部も公開されているのではと期待したが、閉館で外から見るだけ。何故かこんな時期に入試が行われていて、田辺聖子文学館以外は一般の立入禁止となっていたぐらいだから、ここまで手が回らないのだろう。少子化で大学過剰の現在、学生確保はどことも大変なようだ。かくして、マンモス校、近畿大学の最寄り駅、長瀬駅に到着。

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