Other People's Money 〜 「金融に未来はあるか」
2018/1/2

こういう本が出る時代になったんだ。それだけグローバルに活動する巨大金融機関の行く末は、国家そのものも巻き込んで危機的な状況になっているということだろう。Other People's Money、他人様のカネでギャンブルをやっているに等しい金融機関のメジャープレイヤーたちは、ならず者同然であると筆者は断じている。

1987年10月19日、いわゆるブラックマンデーのとき、私はニューヨークにいた。証券取引所のあるウォール街あたりを歩いてみても、そんな大騒ぎという雰囲気はなかったように記憶している。あれから幾たびも金融危機が訪れ、金融機関の破綻が繰り返されても、この世界は変わるどころかエスカレートしている気配すらある。規制当局は微に入り細に入り複雑なルールを積み重ねていても、抜け道を探すギャンブラーたちとの鼬ごっこである。彼らは本当に世の中に必要な仕事をしてるのか。金融本来の決済システムの提供、資金需給の仲介といった教科書に書いてあるようなものから遠く離れた、何の役にも立たないことを繰り返しリスクを巨大化しまき散らしているだけではないか。こんなプレイヤーたちに少しは接したことのある自分としては、筆者のいうことは腑に落ちることばかりだ。

金融というのはそれほど重要な産業なのだろうか。実体経済の規模をはるかに超える市場で行われているトレーディングに鎬を削るために、優秀な頭脳が動員されているのは適切なことなのだろうか。次から次へと開発される金融派生商品やトレーディング技法など、当の金融機関経営者でさえ理解の及ぶところではないのに、そんなものを駆使して短期的な架空に近い収益拡大に追い立てられるメカニズム、今の金融メジャーの宿痾が如実に示されている。筆者は、ここまで肥大化した虚業は潰さねばならないと言っているに等しい。

もっとも、筆者はそこまで過激な物言いをしている訳ではないが、私にはそんな風に読める。本の中には各ページに深く頷ける表現がちりばめられているが、一例を挙げればこんな感じである。

金融市場のトレーディングは、法外な規模に膨れ上がってしまった。金融仲介の質を高めるどころか劣化させ、世界経済がさらされるリスクを分散化するのではなく、増大させる域に達したのである。かくも大規模なトレーディングと経済の安定性を両立できるような資本は、これまで調達できていないし、今後も無理だろう。現在の投資銀行で働くトレーダーの活動規模は、個人預金と納税者が陰日向になって支えなければ維持不可能になっている。

われわれは金融業を必要としている。それは決済を処理したり、住宅ストックの構築やインフラの修復に必要な資金を融通したり、老後の蓄えを可能にしたり、新規ビジネスを支えてもらったりするためだ。しかし今日の金融業界が持つ専門技能のうち、決済の円滑化、住宅購入資金の提供、大型建設プロジェクトの管理、高齢者のニーズや中小企業の育成に関連するものは、ほんの僅かしかない。金融仲介のプロセス自体が目的化してしまっているのだ。
 珍重されているのは、他の金融仲介業者の活動を把握する技能だ。新たな資産の創造ではなく、既にある資産の組み換えに、この技術が集中投下されている。高額の給与やボーナスが与えられるのは、金融サービスを使う側のニーズをきめ細かく汲み取る仕事に対してではなく、商売がたきの市場参加者を出し抜いたことに対してだ。本来の目的を見失った業界の姿を映す最たる事例といえば、この惑星で最も優秀な数学的、科学的頭脳が、コンピュータによる証券取引のアルゴリズムづくりに駆り出され、別のコンピュータ取引のアルゴリズムが持つ弱点探しに血道を上げていることである。

優秀な頭脳を集めているだけに、彼らに自己正当化の理屈をつけさせれば、相手を煙に巻くことぐらい朝飯前、もたらす結果が悲惨なものであっても、「そのころにはお前も俺もいない」カルチュアが蝕んでいる業界だというのは、何となく判る気がする。彼らから直接そんな言葉を聞いたことはないが、そういう雰囲気を醸し出す人に会ったことは何度もある。どこか違うんだなあという違和感を抱きつつ、それを論破できないもどかしさを感じたものだった。当然、その頃にこの本は世に出てはいない。我が国の金融庁などの規制当局者にこの本がもてはやされているのは、今になってようやく拠り所を得たということなのかも。

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