初詣、一気に六倍 〜 松原六社めぐり
2018/1/7

11月早々にインフルエンザの予防接種を受けていたのに、年末に罹ってしまった。今シーズンはワクチンの製造の遅れが報じられていたものの、年寄り優先しかも半額で得をした気分になっていたのに、何ということ。安いぶん薬効が足りなかったのか、自身の油断か。いずれにせよ散々な年越しになってしまった。それでも発熱が38℃止まりだったのは、多少の免疫効果かも。蟄居閉門も新年2日に解けて、ようやく初詣に出かける。今年は近鉄主催のハイキング、松原六社めぐりで一気に数を稼ごうという寸法。併発した中耳炎の回復は遅いが、運動不足の解消を優先。

スタートは南大阪線の布忍駅なのだが、車で出かけるのでゴールの河内松原駅近くの駐車場を探す。あった、しかも無料、イズミヤ松原店、これはありがたい。駅から10分ほど離れているが、最後の神社からは近い。駅に戻る必要などないのだし。近鉄には二駅150円の初乗りで許してもらおう。最初の布忍(ぬのせ)神社で絵馬を買って埋め合わせをしよう。ここは前に別のハイキングに参加したとき、訪れたことのあるお宮さんだ。恋占いとかがあるようで、ハート型の枠に御神籤がいっぱい結ばれている。若い女性が嬌声をあげているのは、きっと御神籤の文言が面白いのだろう。オッサンには縁がなさそうなので、こちらは見送り。

さて次、我堂八幡宮。ここは狭い。続いて阿麻美許曽(あまみこそ)神社、本殿の彫り物が立派だ。以上の三か所で西側のポイントが終わる。残りは松原市の東側にあり、その間は大和川堤防を歩く。堤防上の近鉄南大阪線の踏切を渡り先に進むと大きな赤い車が並んでいる。そうか、今日は出初式なんだ。松原市の消防署のようで、もう放水は終わっているようだ。河川敷ならきっと盛大にやれるだろうなあ。

大阪市の一角をかすめて松原市に戻る。ここからは中高野街道を南下していく。屯倉(みやけ)神社、ここも境内が広い。続いて阿保(あお)神社、このお宮さんでは境内に張られたテントで老若男女が書き初めの最中だ。道具も用意されていて無料だけど、毛筆には自信がない私は尻込みしてしまう。達筆から悪筆までずらりと並んでいて壮観、奥には千年以上という神木のクスノキもある。

そろそろゴールは近い。途中で何か食べればいいやとお弁当は持参しなかった。大和川の堤防に座りお昼の人たちもいるが、あれじゃ寒いことだろう。最後の柴籬(しばがき)神社は近鉄線の南側になる。河内松原の駅前の「餃子の王将」にしよう。形容詞のようになっている餃子はちっとも美味しくないので、いつもの天津麺に、最近はこれしか食べないなあ。

柴籬神社のそばに丹比柴籬宮(たじひしばがきのみや)跡という石柱が立っている。そんなの聞いたことがない。18代反正(はんぜい)天皇のときにおかれたらしい。この人は仁徳天皇の皇子ということだから、次々と都が変転していた時代に当たるのか。河内も古都の端くれなのだ。

茅の輪を潜って参拝、ここも広い立派なお宮さんだ。反正天皇すなわち瑞歯別命(みずはわけのみこと)は、立派な歯を持っていたということで、記紀には、「歯の広さ上下等しく斉ひて、既に珠を貫けるが如し」とあるらしい。それで国内唯一、歯の神様として祀られている由。私は人から歯並びが綺麗だと言われることがあるが、年末のインフルエンザの前に奥歯の詰めものが傷み、ずいぶん久しぶりに治療に通っているのだから世話はない。石の神さんの歯に触るとよいとかで、早く治るよう擦ってみる。
 この話をカミサンにしたら、堺から住吉さんの「はがみさん」にお詣りに行ったことがあるとの指摘、どうやら住吉の歯神社はここに合祀されているようだが、この種の唯一ものには色々と異論・異説がありそうだ。

ともかくこれで結願、スタンプが六つ揃って、張り子の戌も頂戴した。さて帰ろうと境内を出ると、隣に柴籬宮と表示された建物がある。何か展示しているのだろうか。敷地内には土俵のようなものもあるぞ。と、中に入ってみる。
 ここは小さな郷土史博物館だ。松原の歴史を展示している。河内育ちの人間なので、知っていることも多いが、そうでないこともある。表にあった土俵は、近世この地で相撲が盛んだったことによる。地元力士の名前がいくつも並んでいる。大阪のあちこちで相撲興行が行われていた頃である。今のような全国組織ではなく、ローカルなもので、勧進元に土地の顔役が絡んでいたことが推測できる。たぶん現在の地方巡業はその名残りを留めている。こうした流れを引いている日本相撲協会が、公益財団法人とはとても思えないような有り様なのも故ないことではなさそう。良きにつけ悪しきにつけ歴史の産物は生き長らえる。
 もうひとつ興味深かったのは、大和川の付替のこと。こちらの松原側は江戸期の付替で新川ができた場所になる。柏原、八尾、東大阪一帯の付替によって洪水被害の抑止や新田開発の恩恵を受けた地帯とは利益相反、旧村が消滅したり、新川の南北に分断されたり、与えられた代替地が不便であったりと、不都合も多かったようだ。この付替事業の立役者、東大阪市の川中家の出である中甚兵衛の業績を称揚する地域とは微妙にニュアンスが違っている。物事は片方から見るだけではその実像が捉えられないものだ。

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