核兵器をめぐる5つの神話 〜 時節柄、微妙…
2017/2/21

日本選手の活躍もあり、平昌オリンピックがようやく盛り上がってきた感があるこの頃。本来のアスリートの祭典らしくなって来るまでは、もっぱら彼の国の美女応援団や要人の一挙手一投足に注目が集まるという異様さだった。政治の具となってしまった"平和の"祭典の陰で、南北融和の演出は大陸間弾道弾開発までの時間稼ぎであるとの論評が大勢を占めた。

そんなときに読んだのがこの本、ウィード・ウィルソン「核兵器をめぐる5つの神話」。第二次大戦後に盤石なまでに構築されてきた核兵器に係る通説、認識に疑問符を投げかける内容だ。ほとんど誰も疑うことのないまでに刷り込まれ、常識に近い域に達した「神話」に対する反証を並べて、その虚妄性を明らかにするとともに、敢えてネグレクトされてきた事象の再検証が必要であると説く。

ここで「神話」として列挙されているのは次の5つだ。
 神話1 原爆こそが日本降伏の理由(修正主義者 伝統的解釈 …)
 神話2 水爆は「革命的な」兵器(水爆革命 戦略爆撃は決定的か …)
 神話3 危機を回避する核抑止(核抑止 キューバミサイル危機 …)
 神話4 核兵器は安全の守護者(長い平和 火山の乙女 …)
 神話5 核兵器こそが唯一の切り札(核兵器という「魔神」 力の通貨 …)

「広島に原爆が落とされたから日本が降伏し太平洋戦争が終結した」とは、日本人自身も含め、世界中の多くの人たちが信じている「神話」であるという。終戦、ポツダム宣言受諾という判断は、原爆投下によってなされたのではなく、日ソ中立条約を破って参戦したソ連の侵攻が決定的であったとする。当時の日本当局者の対応のようす、相対的に見た日本各地への空爆と原爆の被害との深刻度などの反証が述べられる。全てを原爆に帰することが、日本にとっても米国にとっても都合のいいことだったとする見方には異論もありそうだが、その後の天皇制の維持、東西対立の下での米国のパワーの誇示に決定的な効果をもたらしたという解釈は、あながち嘘とも言えないだろう。

原爆の規模を遙かに上回る水爆は革命的な兵器でもなく、理論上の威力と実効的なそれとの間には大きな相違があるとする。実際に兵器として配備されるものは実用的な小型化の方向に進んでいるとする。これについては、私には何とも論評のしようがない。

3番目の神話、核抑止力の章がもっとも衝撃的である。報復攻撃を恐れて核兵器使用を自制するメカニズムが働くから、核の抑止力があるのだというのは、核保有国自身も、その傘に入っている国々も、指導者が頻繁に口にすることだ。しかし、キューバ危機はじめ、これまで起きた現実の危機の中で、抑止力が効かなかったケースは枚挙に暇がないと言う。それは、偶然、たまたま、危機が回避されたただけであり、指導者の熟慮(あると期待したいが)とはお構いなしに、現場の将校、一兵卒の行動でいつスイッチが入っても不思議ではないとする。頭のおかしい指導者の顔を思い浮かべなくとも、妙に説得力があるところだ。

長い歴史を振り返れば、概ね大きな戦乱がなかった70年をとらえて、核兵器こそが安全の守護者であるとする論は、毎年生贄を捧げていたから火山が爆発しなかったというのに等しいという。大英帝国の繁栄を謳歌したヴィクトリア朝の人たちは、もはや世界は戦争に訴えるという愚行はないと信じていたが、その後に起きた破滅的な大戦を予測出来なかった。核兵器は抑止力でも何でもないというのが現実ではないかとする。

最後に、通貨と同様、核兵器それ自体には何ら価値があるものではなく、それを有効だと万人が思い込むことで成り立っているに過ぎないとする。あまりに過大に評価されているのが現実、それがまさに「神話」という所以と。

以上の5つの神話のあとに、ごく短い結論の章がある。危険で厄介なもの、核兵器に終止符を打つにはどうすればいいのかとの論述だが、現実に縮小・廃絶への道程が可能なのかは甚だ疑わしい。著者が描くシナリオの実現性は何ら担保されていない。決定的な処方箋が出ないのは承知しつつも、こういう終わり方では国際政治の現実に照らして楽天的にはなれない。ともあれ、唯一の被爆国である日本としては、それによる犠牲を知っているだけに、核兵器の有効性を冷徹に検証・分析するというアプローチには心穏やかでない部分があるのは事実だろう。ただ、「神話」を前にして、思考停止してしまうのは愚かなことだ。都合のよい事実だけに目を留めて「神話」を強化するだけでは、何ら情勢は好転しないということについては首肯できる。

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