河陽鉄道120周年 〜 柏原歴史散歩
2018/3/24

一週間前に八尾の安中新田会所跡旧植田家住宅で面白そうなチラシを見つけた。「明治の鉄道遺産を訪ねるツアー」、地元のNPOおいなーれ柏原が開通120周年の記念日に合わせて企画する催しのようだ。さっそく申し込んだら、すぐにメールで参加OKの返事をいただいた。

いよいよその日、近鉄奈良線・大阪線を乗り継いで堅下駅に降り立つ。ここは乗り換え駅ではないが、JR柏原駅まで歩いてすぐだ。近鉄京都線の大久保駅とJR奈良線の新田駅の関係に似ている。昔のイメージしかなかったが、柏原駅はずいぶん立派になっている。コンコースは高架となり、エスカレータまでついている。しかし、近鉄道明寺線のホームはJR関西線のホームの一角に切り込みを入れただけの、行き止まり仕様というのは前と変わらない。もっとも120年前の様子は知る由もないが。
 私の参加するツアーの他に、柏原市が主催する120周年記念イベントもあるようだ。吉本芸人の漫才コンビの司会で、市長やら関連駅長の挨拶、親子の一日駅長の出発進行の号令とかのプログラムのよう。快速の通過待ちで停車時間の長い関西線下り普通列車から何事かと乗客が首を伸ばす。

JR関西線の柏原から大和川を渡り道明寺まで、途中駅は一つだけという近鉄道明寺線、河陽鉄道として開通したのが明治31年、近鉄のなかで一番歴史の古い路線になる。最近出た「近鉄沿線ディープなふしぎ発見」という本の中で、いの一番に取り上げられているのは、この近鉄道明寺線のこと。いまの近鉄南大阪線が道明寺駅と古市駅で不思議なカーブを描いて、本線でありながら道明寺線と長野線の直線コースから枝分かれしているのは何故かという、テッちゃん中級編ぐらいのネタなのだ。もちろん、私は知っている。道明寺線には乗ったこともあるし、不思議なガードの下も歩いたことがある。今回は立派なガイド付きの再訪ツアーということになる。

ホームで行われているセレモニーを横目に、ツアーの一行は2両編成の電車に乗車、150円の一駅だけ、すぐに大和川右岸の柏原南口駅に到着する。さっそく駅のホームで遺構の説明が始まる。駅舎の屋根の柱に使われているのは古いレール、よく見るとG.H.H.1921という銘が入っているのが塗り重ねられたペンキの下に確認できる。約100年前のドイツ製らしい。GuteHoffnungsHutteと綴るようだ。国産レールへの技術導入にも一役買った会社のよう。

次に向かうのは少し柏原駅側に戻ったところにある第2号構橋、狭い路地と斜めに交叉する煉瓦積みのものだ。長辺と短辺を交互に並べるフランス積みという工法で、直交しないため飛び出した角は削ぎ落とし補強のため塗装を施しているとのこと。なるほど、前に見たときは斜めの交叉のことしか印象になかった。先の柱のレールといい、先達はあらまほしき事なり、である。

近鉄道明寺線と平行に付いた歩道橋で大和川を渡る前に、国道の上を越す陸橋橋台を見る。こちらはイギリス積みの煉瓦ということ。美感ということではフランスに分がありそう。鉄道遺構もさることながら、大和川の北側の水路に私の目が行く。付替前に大和川が北行していたところに、新田開発のために用水路だけを残したということなのだろう。

今度は大和川の土手に回り込んで鉄橋の下を覗く。橋桁にCOCHRANE & Co. KAYO.Ry. DUDLEY ENGLANDの銘板がある。Co.はCompanyだから、Ry.はRailwayの略号ではないだろうか。いずれにせよ河陽鉄道は開通翌年には新会社の河南鉄道に譲渡されているので、これは120年前の施設ということになる。こんな鉄橋の下に潜って観察することなどないのだから、案内がなければ気付かないことだ。

さて、本日のメインイベント、松永白洲記念館は堤防のすぐ南、道明寺線の線路にも近いところにある。書家の作品を展示する私設博物館なのだが、ここに河陽鉄道、河南鉄道に係る資料が多く残っているとのこと。それは同家の松永長三郎氏が河南鉄道の初代支配人であったことによるという。今回のツアーに合わせて、当時の時刻表や写真などが特別展示されている。説明の館主松永明さんと柏原市立歴史資料館の石田成年さんの説明にも熱が入る。

展示室を兼ねた座敷はツアーメンバーでいっぱいだ。そこに、壁際を畳一畳ほど空けてほしいとことで、特別公開となったのが河陽鉄道の路線予定図だ。和紙に書かれた手書きの地図、ずいぶん大きなものだ。顔を近づけると予定路線に沿って道路や水路との交叉が細かく描かれている。これは鉄道軌道敷設の申請の際に必ず添付される書類だが、こんなに古いものを見たのは初めてだ。昭和初期のもので何分割かされているものを、Photoshopを使って接続し白地図に重ね合わせて作図したことがあるが、そういうもののオリジナル版、これは貴重なものだ。

地元の名家とはいえ、なかなか個人で博物館を維持していくのは大変だろう。さらに近年、河陽鉄道・河南鉄道に関係する文書が大量に見つかっているらしい。いったい誰が調査・研究していくのだろう。柏原市立歴史資料館なのかも知れないし、社史編纂室が機能しているなら近鉄でいいかも知れない。いずれにせよ時間がかかる。この種の資料は広く公開して、研究者や一般に供するのが適切だろう。マニアの多い世界だけに。

現地解散となり、また橋を渡って藤井寺市から柏原市に戻る。帰りは安堂駅まで歩く。川沿いの国道25号から一段下がった道を行くと、築留土地改良区というところに出た。築留二番樋という標石があり、登録有形文化財になっているらしい。ここにもイギリス積みの煉瓦という説明がある。いくつかある大和川の取水口だ。この水は現在の長瀬川、玉串川に続く。住友家が開発した山本新田あたりに長く住んでいた私なので、この季節になると満開の桜並木が目に浮かぶ。通っていた小学校は付替前に大和川の河川敷だったと聞いていた。
 この付替地点、右岸の柏原市側の堤防上には、付替の立役者、中甚兵衛の像が立っている。決して左岸ではないのだ。柏原市、八尾市、東大阪市と続く一帯は付替の恩恵を受けた側、藤井寺市、松原市のほうは農地が水没した側になる。松永家には大和川付替に反対する古文書が多く残っているそうだ。正月に訪れた松原市郷土資料館にもそんな展示があった気がする。右岸と左岸ではこの事績に対する見方も微妙に違う。総体としての事業効果は絶大であったにせよ、当事者にしてみればミクロのほうが関心事になるのは人の常だろう。明治の遺産を訪ねて元禄宝永の遺産に思いを馳せる。

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