「山本直純と小澤征爾」 〜 いまこの本の意味
2018/3/29

この季節になるとスーパーマーケットの店内などで耳にすることが増える「一年生になったら…」、これの作曲者は山本直純だということを知らなかった。たぶん多くの人と同じく、私の記憶にあるのは「大きいことはいいことだ」のテレビコマーシャルなのだが、この人は童謡も作っていたんだ。あのCMのインパクトが強すぎて、ついテレビタレントというふうに見てしまう。その山本直純とともに学んだ小澤征爾、二人の名前を並べた本を読んだ。

図書館で借りる本にはないが、書店に置かれたこの新書には「埋もれた天才」と「世界の巨匠」という物々しい帯が付いている。「この二人がいなければ、日本のクラシックは存在しなかった」という一文がそれに続く。同じ朝日新書で、しばらく前に「阿久悠と松本隆」という一冊を読んだことがあるから、この出版社はこの手の企画が好きなんだろう。

それはともかく、著者の柴田克彦氏が初めて東京でオーケストラの生演奏を聴いた時の指揮者が山本直純だったとのことで、彼の山本直純への思い入れは強い。小澤征爾について書かれた本は多い一方で、山本直純を真面目に取り上げた本は読んだことがない。それが「埋もれた天才」という言葉になっているのだろう。しかし、メディアへの露出ということでは山本直純は決して埋もれていたわけではない。

著者が言いたいのは、作曲や指揮の分野でクラシック音楽の本流を歩んだとしたら、レナード・バーンスタインに匹敵する仕事をしただろうということだ。著者自身、あるいは山本直純と親交のあったさだまさしの言葉を借りてそのことが述べられる。私が思うに、演奏家には作曲家に対するコンプレックス、つまり作曲のできる指揮者のほうが格上だという潜在意識があるような気がする。バーンスタインと対置されることの多かったヘルベルト・フォン・カラヤンがレコーディングに異常に執着したのは、指揮者としてのコンプレックスの裏返しではなかったか。ともあれ、小澤自身は山本直純の才能を自分より上と高く評価していたそうだ。それが小澤征爾の素晴らしいところで、その人間性が、努力できる才能と相俟って世界中で受け容れられたのだろう。オペラの分野では素人同然だった小澤征爾が、ポリティカルな要素はあったにせよ、ウィーン国立歌劇場の音楽監督にまでなったのは並外れた努力の賜物だろう。

「直純は音楽を大衆化し、小澤は大衆を音楽化した」といった表現が本の中にある。言い得て妙とはこのことだろう。有り余る才能を大衆化という側面に放出した山本直純、西欧クラシック音楽の本流に挑み続けて道を切り拓いてきた小澤征爾、確かに対照的ではある。多くの指揮者を輩出した齋藤秀雄指揮教室で同門だった二人が別の道筋でクラシック音楽の普及に貢献したことに疑いはない。いわゆる権威筋からは批判されることも多かった半面、より広汎な層からの熱狂的支持を集めたのは事実だ。山本直純が亡くなってずいぶんになる。小澤征爾は80歳を越え体調不良での公演キャンセルも珍しくなくなっている。次の時代への移行が始まっているように思える。どんな世界が広がっているのたろう。

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