泉南飯盛山に登る 〜 タフだった385m
2019/11/4

夏山のあと修理に出していた登山靴が帰ってきた。靴底が磨り減りゴムの接着も浮いてきていたのが綺麗に仕上がっている。新しい靴ではないので足慣らしは要らないものの、やはり早々に使ってみたい。どこに行こうか考えて、三重県の栗ノ木岳と修験業山を候補に挙げていたところ、カミサンが高校のバスケットボール部の同窓会で荷物もあるので送ってほしいと言いだした。堺の泉陽高校は全く反対方向なので行先変更、1時間ちょっとで登れる泉南の飯盛山にした。

堺から国道26号を南下、奈良から阪奈道路、中央環状線と下道ばかりを走って大阪府の南の端まで。連休も最終日なので道路も空いている。淡輪から番川沿いに山間に向かう。途中の西谷寺のところに飯盛山登山口の道標があったのでここから登ることにする。もう少し奥まで進んで別のルートのつもりだったが、どっちでも同じようなもの。ちょうど広い空き地もあって駐車もできる。

古びた寺で人の気配もない。境内に墓石も並んでいるので廃寺でもなさそうだ。境内のはずれに地蔵尊があり建武地蔵というらしい。建武年間なら相当に古い。その前を過ぎて沢筋を進む。何だか心許ない山道で、すぐに倒木が行く手を塞ぐ。それを避けつつ進むのだが、こんな調子だと時間がかかりそう。先年の台風で倒れたものなのか、その後に荒れるに任せている風情だ。持参した古い地図にはちゃんと実線でコースタイムまで書いてあるのに。

だんだん沢筋の倒木に難渋するようになって、こりゃあ尾根筋に出るほうがマシと本格的な藪漕ぎに腹をくくる。帽子、長袖、手袋、サングラスと藪漕ぎの格好はいちおう万全。急斜面に取り付き立木を頼りに這い上がっていく。尾根筋は藪は薄いものの、シダ状の草が足に絡みつくし、木枝が身体を叩く。たかだか標高385m、2時間もあれば、別の尾根に付いているはずの登山道に合流するだろう。途中に小休止を挟んで汗だくになりながら、ひたすら高みを目指す。人の気配に驚いたのか、目の前を狸が走り去る。やっとのことで登山道に出たところはもう頂上に近い。最後はハイキングのような感じで飯盛山のてっぺんに辿り着いた。2時間はかからなかった。

先客が二人、どちらも単独行の同年配か少し上の人で、山頂のベンチで昼食中。
「お疲れさんでした」
「いやあ、なかなかきっかったですわ。麓の寺から9割方は藪漕ぎで。ずいぶんルートが荒れているみたいですね」
「藪漕ぎ、健脚ですねえ。私もお寺のところから登ったんですが、普通の山道を来たんですけど」
「えっ、ほんとですか。おかしいなあ、道らしいところは最後の登りだけでしたけどねえ」
「地蔵さんのところから左に真っ直ぐでしたけどね」
「そこで間違ったのかなあ。すぐに道はなくなりましたけど」

どういうことだろう。いきなり道を外したということなんだろうか。下りで確かめなくては。

大汗をかいて到着した飯盛山山頂は眺めが素晴らしい。大阪湾が一望というところ。向こう側の淡路島はもちろん、うっすらと四国の山影も見える。去年のこの時期には石鎚山にいた。眼下、近いところでは左に多奈川火力発電所、右に関西国際空港。展望デッキから双眼鏡で着陸する飛行機を眺める。韓国便は激減しているようだが、それでも相当な頻度で到着する便がある。操縦は自動制御のはずだけど、滑走路末端目がけて侵入する機体もあれば、少し高度を保ち滑走路に入ってから降下する機体もある。これはパイロットの癖なんだろうか。滑走路の長さに余裕があるからバリエーションがあるのかも。

あとから到着した登山者も下山したので山頂に一人、この日の登山者は四人と言うことか。どれ、ほんとうに立派な道があるのかどうか、下りで確かめてみよう。

あるある。見紛うことのない立派な登山道が尾根筋に続いている。すぐに分岐があり、山腹を捲くように下って行く。崩れているところもないし、倒木も一本だけだった。沢に近づいても沢身に下りるのではなく流れと並行して緩い傾斜の道が続く。右手に集落が見えるようになったら件のお寺はすぐだ。あの建武地蔵のところに到達した。

そういうことだったのか。地蔵の左手の平らな道を進めばよかったんだ。右手の沢筋に入ったのがそもそもの間違い、しっかり地図を確認すれば済んだことだ。昭文社の地図も、国土地理院の地図もポケットに入っているのにろくに見ないで登り出すからこういうことになる。間違ったところで、適当に登って行けば山頂に着くと、385mを舐めてかかってとんだアルバイトとなった。駐車した原っぱで歩き出す前に稜線の繋がりと地図を照合するだけでよかったのだ。歩き出しは南寄りに明瞭な谷筋をしばらく水平道が続くのは歴然としているのに。お馬鹿にもほどがある。まあ、結果として貼り替えた靴の足慣らしには充分過ぎるほどだったけど。

帰りは、和歌山経由で無料の京奈和道を走る。その前に、今は岬の記念館となっている孝子(きょうし)小学校に立ち寄る。あいにく休館日で校門は閉まっている。映画のロケに使えそうなレトロな校舎だ。ここは1964年の東京オリンピック聖火リレーの大阪府最後の中継点だったところ。その頃には生徒も多かったのだろう。岬町では廃校ではなく休校としているようだが、復活の日が来るのだろうか。

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