新国立劇場「蝶々夫人」 ~ 繊細でオーソドックスな演出
2001/6/9

新国立劇場の「蝶々夫人」。緑川まりがタイトルロール、ピンカートンがゾラン・トドロヴィッチ、領事シャープレスが大島幾雄、スズキが高尾佳余というキャスト。アントン・グアダーニョ指揮の東京フィル、演出が栗山昌良。

公演のチラシ

これは、ダブルキャストの裏の組だったが、出来はなかなかのもの。横のオバサンは、表のキャストのヒロインが素晴らしかったと言っていたが…
 何でも日本人以上に仕草等が日本人らしかったというような話。そっちの方は観ていないので何とも言えないが、演出の細かさを見るに何となく納得できる。

作品の舞台となった日本で、新国立劇場レパートリー演目第1号として製作されたとのことで、その意気込みはわかる。第一幕幕切れの長大な二重唱の人物の動かし方や動作の細かさは、演じる方は大変でも説得力はある。また、舞台の横幅を二倍に使った装置は、この劇場の機構を活かしたものだと思う。

二重唱の始まりは蝶々さんが舞台下手の家屋に入って夜着に着替えるシーン、ここでは障子の向こうで歌う。その時には、人の動きにつれて舞台が右にシフトし、家屋が正面に来る。ピンカートンとの掛け合いでは、ただ並んで歌うようなことはなく、蝶々さんには細かい振りが付けられていて、ピンカートンの背中に回ったりもする。二重唱のクライマックスでは、舞台は左に一杯シフトし庭が前面に出る。

一幕と二幕のセットは基本的に同じだが、一幕では畳敷きだったものが、二幕では板の間になっている。床の間にはキリストを描いた和洋折衷的な掛け軸がかかり、マリア像やピンカートンの写真が置かれている。このあたり、ピンカートンに寄せる蝶々さんの心情を装置でも表している。ただ、背景の長崎港の書き割りの船が動きもなくチャチなのはいただけない。

演出・装置のことばかりになったが、歌手も全員好演。緑川さんは最高音がかすれたような響きで、ビブラートがかかりすぎるのが相変わらず気になるが、一時の不調からは回復かな。昔のレナータ・スコットがこんな音を出していたような気がする。
 この人のいいとところは、歌唱もさることながら言葉の感覚が鋭いこと。最近でも知っているだけで、ドイツ語(サロメ)、フランス語(メリザンド)、ロシア語(カテリーナ・イズマイロヴァ)、もちろんイタリア語と歌っている。これだけ各国の言葉だと大変だと思うが、私もちょっとかじっているのでわかるイタリア語が明快で、本当に台本の意味を考えて歌っている。

大島さんとの手紙の二重唱は、どちらもきちんとした言葉で泣かせる(プッチーニがそんな風に書いているからもあるが)。この二重唱の途中、領事が辞去しようとするとき、フルオーケストラが鳴り響きピンカートンの子供が登場する。領事が「名前は?」と尋ね、蝶々さんが「今は『苦悩』という名前、でもピンカートンが戻るとき『喜び』に変わる」と応える。
 パプロフの犬のように、私はいつもここでポロッと涙が出る。それと、ピンカートンの再来を待つ夜更けのシーンにハミングコーラスが重なるところ。ところが、女性が泣くのは幕切れ近く、蝶々さんがピンカートンの妻と対峙し、子供を渡し死を決意するシーン。これは男女の感性の違いなんだろうか。

指揮者のグアダーニョは出演者の誰よりも背が低いおじいさん。東京フィルでは「アルジェのイタリア女」をやったときに聴いたことがある。ネッロ・サンティとか、この人とか、さらに、実演は知らないが録音では私にとって神様みたいな故トゥリオ・セラフィンとか、歌手の生理がわかり、ドラマのツボを心得た、劇場叩き上げの人はほんとに安心して聴いておれる。

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