新国立劇場「セヴィリアの理髪師」 ~ 二度目の最後のアリア
2002/10/31

公演のチラシ

幕切れのアルマヴィーヴァのアリアのない「セヴィリアの理髪師」はもう聴く気にならないかも知れないなあ。今まで聴いていたのは何だったんだろう。別のオペラのような。

あれを歌えるテノールを探すのは大変、これがスタンダードになると上演のハードルが高くなって、傑作ブッファの舞台を観る機会が減るのではないかとの心配も…

春のボローニャ歌劇場来日公演、ファン・ディエゴ・フローレスが歌ったのを聴いたときは、「あれっ、これは、いったい何だ!」という感じで驚いたが、今日の新国立劇場の初日でも、アントニーノ・シラクーザがやってくれた。

二度目なので、驚きと言うよりも、じっくり聴こうというような感じで、長大なアリアを堪能した。アジリタのキレの良さなど、私が聴いた日のフローレスを凌ぐほど。いいロッシーニ歌いだ。第一幕の窓辺のセレナーデもいい感じ、いかにもそれらしい。

最後のアリアがあるとないでは、このオペラの印象がガラッと変わる。なければ、アルマヴィーヴァはただの優男、あれば、強さと同時にエゴイスティックな男かな。これがあると、続編の「フィガロの結婚」の物語にすんなり繋がるような気がする。

ところで、ボーマルシェ三部作の最後の「罪ある母」はオペラ化されているんだったっけ? ロジーナが不倫の子を産んで…という喜劇とは縁遠いお話、現代の作曲家なら題材にしても不思議じゃないけど。

横道にそれたが、ボローニャからそんなに月日もたっていないから、ひょっとしてがっかりするのではと、ちょっと心配だった。それも杞憂、素敵なアンサンブルと愉悦に満ちた世界を充分に味わえた。

ロッシーニやこの頃のオペラは、幕が進むに連れて一つひとつのアリアやアンサンブルで、だんだん満たされていくという感じになると一番いい。これって、演奏するほうは、けっこう大変なことだと思う。ロッシーニ・クレッシェンドよろしく、序曲からフィナーレまで、緻密に積み上げて行かないと駄目だから。

初日は不出来のことが多い新国立劇場だが、今日は、にじゅうまる。

ジョイス・ディドナートのロジーナは、かなりパワフルな歌い方で、それはそれなりにいいのだが、亭主を尻に敷いてしまいそうな感じで、フィガロの伯爵夫人にはつながらないなあ。そりゃ、関係ないか。

フィガロ(ロベルト・デ・カンディア)、バルトロ(ブルーノ・プラティコ)、バジリオ(フランチェスコ・エッレロ・ダルテーニャ)の低音トリオは歌もさることながら、芸達者で楽しめた。

アントニオ・ピロッリ指揮の東京フィルは、でしゃばらずいいサポートをしていたと思う。

粟國淳の演出の舞台は、なかなか綺麗で見応えがある。セヴィリアの広場を、バジリオのアリアや嵐の音楽の背景にも効果的に使っていた。紗幕の後ろで左右スライドによって舞台転換しているのだが、少し移動の音が耳障りになる。バジリオの陰口のアリアに至っては、"Piano piano…"という後ろで機械音がするのはねえ。 びわ湖ホールなら、音もなくスライドするところだ。

五十嵐監督の最後のシーズン、確実に進化している。

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