ゲルギエフ/キーロフのマーラー「第九」 ~ 終止のあとのフェルマー
2002/11/29

公演のチラシ

東京国際フォーラムの天井桟敷では舞台は遠くに霞んで(?)いたが、ここサントリーホールではゲルギエフが目の前(舞台脇のRAブロック)。またも直前にチケットを譲ってもらい聴いてきた。

この曲は学生時代によく聴いた。今はそんなことはしないが、FMでエアチェックしたテープを繰り返し…。あれは、キリル・コンドラシン指揮の演奏だった。ソ連だったかどうか、どこのオーケストラだっかも覚えていない。なにしろ30年前のことで…

おっと、今はロシアだ。そしてレニングラードじゃなく、サンクト・ペテルブルグだ。奇しくも、ロシアのオーケストラで、今、マーラー「第九」を聴く。

30年の間に、ライブで、CDで、色々な演奏でこの曲を聴いた。ここでロシアとは、何だか先祖返りのような感じもある。この間には、はるかに洗練された「第九」を聴いてきたように思う。

これは、言わば粗野な「第九」だった。少なくとも第三楽章までは。フレーズが何となく荒っぽいなあ、端々の処理が雑だなあ、管楽器の表情が今ひとつだなあ、はぐれてしまったようで意味を感じないソロがポツポツ、と思って聴いた第一楽章。中間のスケルツォ楽章とロンド楽章は、益々その印象が強く、すこぶる元気はいいんだけどなあ…。でも、私の聴きたいマーラーはこういうのじゃないと思っていた。

ところが、終楽章アダージョでそんな邪念(?)は浄化される。弦楽器の重なりそしてうねり。気持ちがどんどん高揚していきます。管楽器・打楽器も、大活躍する楽章より、ここ一発決める方がいい。この楽章はゲルギエフも終始指揮棒なし。この人はその方が凄い音楽をつくるようだ。指揮棒なしと言っても譜面台を乗り越えるように手が伸びるから、逆に表情は大きくなる。

ああ、この楽章は最高だった。そして、消え入るような弦のディミヌエンドで曲が終わる。でも、体の中でまだ音楽は鳴っている。
 どれだけの静寂があっただろうか、10秒20秒なんてものじゃなかった。私が経験した中では一番長い。いつ拍手をしようかと構えている人は、ほとんどいなかったと思う。それぞれの人の体の中の余韻が消えたタイミングで、拍手が自然にクレッシェンドしていった。素晴らしい聴衆だったと思う。

忘れちゃいけない、松村禎三の「管弦楽のための前奏曲」。オーボエの長いソロに始まり、幾重にも重ねたフルートが長く続き、徐々にオーケストラに伝播していき、響きがうねるように高まっていく。日本公演だから採り上げたと言うよりも、ゲルギエフ/キーロフの真骨頂を発揮できる選曲と見た。これは名演だ。

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