コッソットの「イル・トロヴァトーレ」 ~ 想像力で補う現実
2003/9/19

昨年(オペラシティ)、今年(いずみホール)と、リサイタル会場まで行ったのに、安いチケットがなくて見送ったフィオレンツァ・コッソット、三度目の正直(?)で開演直前にチケットを半額で購入、これが時価、正味価値と言えそうだ。

何しろ、マリア・カラスやエットレ・バスティアニーニといった鬼籍の人たちと檜舞台を踏んでいた訳だし、全盛期は1960年代から70年代だと思う。信じられないほどに歌手寿命が長いのは、天賦のものに加え、精進の賜だろう。

私は全盛期に生で聴いたことはないが、それでも1989年に林康子、ジュゼッペ・ジャコミーニなどと歌ったアムネリスの素晴らしさは印象に残っている。あれは「アイーダ」じゃなくて「アムネリス」だった。1993年の「ファルスタッフ」年にも東京で聴いているが、あれは彼女の主要レパートリーとは言えないし。

今回、コッソットの「アズチェーナ」というキャッチコピーだったように、彼女がただ一人の主役の演奏会形式オペラ上演、確かに、その言葉どおりだ。しかし、感動を味わうには、幾ばくかの想像力で補う必要があった。

共演者を圧する声量、得意中の得意の役柄だけに、ドラマを感じさせるレチタティーヴォの凄み(アリアの比ではない)、彼女が絡むアンサンブルでは共演者の歌もレベルアップする。これが大歌手の発するオーラなのだろう。

聴いた人にはすぐに判ることで、言わずもがなだが、残念なのは、声の美感が著しく失われていること。今舞台の上の声をそのままに聴けるのは、彼女のパートのせいぜい1/3程度だろうか。残りの2/3は私たちが知っている記憶の中の歌を紡ぎあわせて頭の中に再構築する過程が必要だ。
 類まれな強靱な美声が、あるときはストレートに、あるときは弧を描いて迫って来るようなコッソットの歌、いま力強さだけが健在というのは、果たして幸せなことなんだろうか。

10年ぶりに聴くので、それなりの心の準備をしていたのでショックはなかったし、先の再構築プロセスを組み込んでいたので、彼女の歌は充分に楽しめた。
 もはや欧米のメジャーなステージに立つことはないのだと思うが、これは、あくまでも日本のファンへのサービスと受け取るべきなんだろうなあ。

ルーナ伯爵のハンス・チョイは、低いところから高いところまでムラのない声で、美しいレガートを聴かせる。問題は、体の内側だけで響いているようなところがあり、声がポンと前に飛んでこないこと。

マンリーコのチェチュル・ぺーは、PAを使った舞台裏と舞台上の音量の差に戸惑う。彼も美声でフォームもしっかりしている。徐々に調子を上げ、「見よ、恐ろしい火を」も見事にクリア。

レオノーラの関定子。プログラムに「遅咲きの大輪」という形容をしているぐらいなので、私は聴いたことがないはず。最高音の美しさを持たないし、それを獲得できなければ、自ずと限界がありそうだ。

フェランドの志村文彦。「イル・トロヴァトーレ」上演を楽しめるか否かは、幕開きの長大なバスのソロにかかっている。低いところは苦しいし、快速のパッセージはいっぱいいっぱい。至難の役とはいうものの、あまりに平凡。

カヴァティーナとカバレッタのつなぎなどに登場する脇役陣、中に首をかしげるような人が混じっていたのは困りものだ。こういうちょい役を疎かにすると、ヴェルディの音楽が活きてこない。

ニコレッタ・コンティという女性指揮者に率いられた東京フィル、全然目立たないごく普通の伴奏だった。俺が俺がというような自意識過剰の指揮よりも疲れなくていいけど、ちょっと物足りないと思うところも…

この公演の主催はヴォイス・ファクトリーという会社、クーリングオフ制度(気に入らなくて途中退場なら返金)の導入などで話題だが、今回も直前になって同社が運営する「チケット・ポンテ」というハーフ・プライス・サイトに当公演が登場。S席でも4桁価格で販売されていた。それに、やたら招待券が出回っている。そんなことなら、端から適正価格に設定すればいいのにと思う私。当初価格で買った人は腹の立つことだと思う。

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