新国立劇場「アイーダ」 ~ アムネリスじゃなく、やはりアイーダ
2003/9/20

私が後生大事に持っていたこの日のチケット、奈良から遠征するのは大変だろうと、東京の悪友が虎視眈々と狙っていた。そうは問屋が…、仕事の打合せを金曜午後にセットできたのは僥倖、この手があるぞ。

この新国立劇場こけら落としのプロダクションは、チケットを持っていたのに断念した(友だちにあげた)因縁のものだ。あれが、ホセ・クーラのケチのつき始め。以来、酷いときしか聴いておらず、まとも(だったらしい)ときは全て見逃すという始末。

フランコ・ゼッフィレッリの演出・衣装・美術は、お金をかけただけのことはある。私はこのアイーダを初めて観るが、メットで観たいくつかのゼッフィレッリ演出と比べると、新国立劇場は舞台がいくぶん小振りなせいか、度肝を抜かれるところまではいかない。
 第2幕の凱旋の場、本物の馬が走って来るのは、なかなかの迫力だ。人がいっぱい出てくるのも彼のお馴染みのパターン。新国立劇場ではいつもは大したことのないバレエ、今日の踊りはなかなか良かったなあ(東京シティ・バレエ団)。
 第3幕のナイル河畔の場面は、どうなんだろう。これは美術としては今ひとつの感じ。

ノルマ・ファンティーニ、私がこれまで聴いたなかでは最高の出来だ。体つきもそうだが、歌がシェイプアップしている。トスカやレオノーラなどで気になった歌の贅肉がなくなった。声の響きを優先するかのような無意味なテンポの緩みや伸ばしを感じなくなった。声の美しさはそのままに、過剰に走らずコントロールが行き届いた歌に変身したように感じる。それもアリアだけでなく、全曲を通してドラマが歌に息づいている。

ホワイエにファンクラブの手作りチラシが置かれていた。以前お誘いいただいたときには固辞したが、今の彼女なら考えてもいいかな。でも、このアイーダのあとは、彼女の新国立劇場への出演予定はなさそうだ。ウイーン国立歌劇場での「アンドレア・シェニエ」(共演ホセ・クーラ、レナート・ブルゾン)など、檜舞台での活躍が期待されるが、日本が大好きという彼女、新国立劇場のプリマと言ってもいい人の歌がこれから聴けないのは淋しいものがある。
 そんなことを思うと、この作品のなかの二つのアリアのタイトル(Ritorna vincitor / O patria mia)が、何となく意味深長のような…

今日の公演で健闘したのは、邦人男声の二人、アモナスロの牧野正人、ランフィスの妻屋秀和。
 妻屋さんは「アッティラ」のタイトルロール以来、注目している人だが、ヴェルディのバス、深々としたカンタービレが歌える希有な人材だ。そして、牧野さんの出来のよさには正直びっくりした。投げつけるような歌い方になりかねない役だが、力強さに節度がある。

問題含みなのが、ラダメスのアルベルト・クピードと、アムネリスのルチャーナ・ディンティーノ。二人に共通するのは、歌に品がないこと。彼らが歌い演じるのは、エジプト王女と将軍だ。ヴェリズモ・オペラに登場する激情に奔る市井の人ではない。ヴェルディは彼らの歌以上の音楽を間違いなく書いていると、私は思う。

クピードは第3幕になって、急に声が出るようになったが、脳天気で単調な歌としか感じられなかった。声が出るということは、それだけでも価値はあるのだが、でも、それでいいということでは…

ディンティーノが第2幕でアイーダを詰問するシーン、嫉妬に駆られただけの嫌な女に過ぎず、何ら王族の矜持が表現されない。この幕の冒頭、あんな不明瞭な言葉で歌われると、歌舞伎町あたりの呼び込みのよう。彼女、声自体は立派なものだと思う。演技が大根ということに目をつぶるとしても、歌でドラマを性格を表現してくれなくては…

私の印象が、プラス・マイナス、はっきり二分された公演だった。

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