チェコ国立プルゼーニュ歌劇場「売られた花嫁」 ~ 苦い味の喜歌劇
2003/10/3

公演のチラシ

この「売られた花嫁」というオペラは、有名な割に、序曲を除けば録音でもこれまで観たことも聴いたこともない作品だった。
 仕事で外に出たとき覗いた中之島のフェスティバルホールの窓口には、発売からだいぶ経つのに安いチケットが残っていて、思わず購入。なにせ、いまやオペラに関しては一地方都市にすぎない大阪…

予想したとおり客足はさっぱり、大きなホールに半分ぐらいかしら。天井に近い座席のチケットだったけど、あまりの空席に、とうとう二階席に登らずじまい。なので上階の入りは判らない。

配役表が配られず、2000円のプログラムも買わなかったので、会場内の掲示を書き写す。名前がややこしい。プログラムを買ったところで本日誰が歌うのかは書かれていないだろう。

クルシナ(農夫):イジー・ライニシュ
 ルドミラ(その妻):エヴァ・クレチコヴァ
 マジェンカ(その娘):ヴァレンチナ・ハウダローヴァ
 ミーハ(地主):トマーシ・インドラ
 ハータ(その妻):イヴァナ・クリメントヴァ
 ヴァシェク(その息子):ヤン・オンドラーチェク
 イェニーク(先妻との間の息子、マジェンカの恋人):ズビニェック・ブラベッツ
 ケツァル(結婚仲介人):パヴェル・ホラーチェック
 指揮:イジー・シュトルンツ。

知った名前は一切ない。この劇場のアンサンブル歌手たちということなんだろう。アリアを聴く限り図抜けた人はいない反面、第3幕の重唱が見事だったようにレヴェルが揃っているし、それぞれの芝居や絡みも堂に入っている。声楽的にきつい役柄もなさそうだし、安心して聴いていられるのもいい。超弩級の歌手を擁する引越公演とは違ったリラックスした雰囲気(やや淋しいところもあるが)が漂う。これも、ま、いいか。初めて聴いても音楽は親しみやすく、三幕と喜劇にしては長いのに退屈しなかった。

舞台装置は簡素だけど、フェスティバルホールの間口が大きい舞台でも、みすぼらしい感じはあまりなく、シンプルで質素という印象だ。そう感じたのも、コーラスや旅芸人役の人たちの動きが実にスムースで自然だから。農民たちに扮するコーラスの衣装もきれいだったし、一人ひとりの仕草や舞台上の移動、果ては踊りに至るまで、それぞれに個性がある。これは二回や三回の公演に備えて準備したのでは到達し得ないレヴェルだ。多分彼らは何百回と演じているのだろう…

オーケストラは、序曲では特に弦がさびしい響きだなあと感じたが、慣れるとなかなかいい。決して声を邪魔しないばかりか、舞台上との呼吸も合っている。デリケートな弱音も出せる。

以下は、ちょっと演奏自体の感想からは外れて、この作品の問題点について。

このオペラは、一応ハッピーエンドの喜劇だが、現代人あるいは都市生活者の感覚として、素直に笑えない部分がある。つまり、知恵遅れで、どもり(おっと、これらは放送禁止用語?もとい、知的障害、吃音)のヴァシェクを、この農村の登場人物たちが笑い者にする残酷さのことだ。
 人権擁護の立場からはとんでもない話、社会的弱者を痛めつけて平然としているカップルだし、ましてその一方は彼の義兄でもある。何も悪いことをしたわけではないヴァシェク、マジェンカや道化芝居の女優エスメラルダに惹かれて、結果、騙されたり、熊の格好をさせられたりと、虚仮にされるだけ…

太宰治の最高傑作「お伽草子」のカチカチ山を彷彿とさせる。人間の本性として存在する邪悪さ、それを認識しないから、隠そうともしないし、矯めようともしない農村社会の人間模様というひねくれた見方だって…
 かくして、この思いやりのないカップルが子供を設けて、この社会の差別意識は継承・再生産されていく。

この「売られた花嫁」を観ながら、演出のしようによっては、全く違ったドラマ、表面的な喜劇の陰の悲劇の深淵を覗かせるような表現も可能かと思った。
 まあ、しかし、人権という概念自体が、19世紀後半以降のものだから、このオペラをそんな目で見ること自体が不適切かも知れないけど。
 この作品で吃音を音楽的モチーフにヴァシェクの歌を書いたスメタナが、自身も聴覚障害、精神障害となったのは、なんだか皮肉なことに思える。

ジャンルのトップメニューに戻る
inserted by FC2 system