大阪国際フェスティバル「ラ・ボエーム」 ~ 潰えた「希望」、なのか…
2004/4/26

大阪国際フェスティバル、栄光のときを知るものにとっては、いかにも淋しい近時のラインアップだ。それでも、その掉尾を飾る「ラ・ボエーム」は、井上道義指揮、ミケーラ・ズブルラーティのミミ、佐野成宏のロドルフォ、並河寿美のムゼッタ、堀内康雄のマルチェッロ、久保田真澄のコッリーネ、かなりのキャストのはずだけど…

このオペラ、私は偏愛していると言っても過言ではない。特に第3幕から幕切れまでは、良くできた台本とちょっとやりすぎとも言えるほどの心憎い音楽、ごく普通の演奏でも引き込まれてしまう作品だ。今夜の演奏にしても、その例に漏れないが、如何せん、前半の二つの幕の出来が落胆以外の何ものでもない。残念、そして、がっかり。

終始、聴くに値したのは久保田さんのみ。あとのキャストは尻上がりとは言え、前半があんな状態では、リカバリーにも限度がある。聴衆としても意気消沈してしまったあとでは、感動の域まで盛り返すには自ずと限度が。
 正直、休憩なしで演奏された二つの幕が終わったあと、友だちと一緒でなければ、さっさと帰っていたかも知れない。

佐野さんは不調。"不調"という言い方が当たっていなければ、安全運転、思うに「冷たい手」のハイCに不安を感じていたのだろう。それまでの歌に力が感じられない。声の出る出ない、大きい小さいということではなく、芯がない弱い声の連続だ。案の定、最高音に舞い上がる la speranza(希望)のところではクラッシュ。無惨。調子が悪ければスコアにも書かれた、低いほうのオブションで歌えばいいのに。これが気になるばかりに、それまでの歌に全く精彩を欠くのでは本末転倒。アクロバットを期待して聴きに来ている訳ではない。

ミミのズブルラーティ、声はよく出る。ただ、こちらも第1幕の歌には品がない。イタリア語の美しくシャープな響きとは無縁。そのフレーズ、そのフレーズでの歌であり、力任せになるところも耳につく。息の長いメロディラインが感じられないし、「私の名はミミ」も何だか薄汚れた印象だ。

開幕のボヘミアンたちのアンサンブル、オーケストラに乗り切れない。オーケストラがリードするわけでもなく、さりとて舞台上のアンサンブルが音楽を推進するわけでもない、どっちつかずのバラバラ状態。いきなりストレスを感じてしまった。

堀内さんのマルチェッロも力みが感じられ、それがノーブルな声を殺してしまっている。もっとも第3幕以降は復調、同様に、失敗したとは言え第1幕の関門を通過した佐野さんも、第3幕以降は立派なテノールの声が戻った。と言うことで、第4幕冒頭のテノール、バリトンのデュエットが今夜の歌の中では一番の出来。これだけは一流の水準。

オーケストラはモーツァルト・フェスティバル・オブ・オーケストラ・スターズという長い名前の団体ですが、臨時編成なのでしよう。これにザ・カレッジ・オペラハウス管弦楽団という日本で唯一の歌劇場座付オーケストラが加わった大編成だが、アンサンブルの体をなしていない。いかに井上さんが腐心しても練習不足なのだろう。下手ではないにせよ、各楽器が勝手に自分のパートを奏している感がある。特に、歌が持ち直した後半の幕については、そんなオーケストラのアラが目立った。

限られた予算に時間、その中で意欲的な演目をという関係者のご苦労は多とするにしても、それが成果として実現したかと言うと、空回りに近いものがある。

当初、演奏会形式とアナウンスされていたと思ったのに、会場に来てみればオーケストラはピットに、舞台には豪華ではないにせよ装置もちゃんと並んでいる。字幕の出し方(舞台装置の一部に表示)や照明にも工夫のあとが窺える。
 例えば、終幕、ボヘミアンたちのバカ騒ぎの中にミミを連れたムゼッタが屋根裏部屋を訪れる場面、音楽が一転しヴァイオリンが哀切なメロディを奏でるところ、よく見るとオーケストラのその部分の照明を強調しています。ただ、でもねえ、公演全体を見れば、舞台や、そんなところに工夫するくらいなら、演奏会形式でよいから音楽の精度を上げてほしいというのが私の偽らざる感想だ。

いつもの天井桟敷、フェスティバルホールの2階P列から見ると、天井の亀裂や剥げかけた塗装がはっきりと目に入る。もはや国際フェスティバルとは名ばかり、さらに在阪のオーケストラの演奏会はザ・シンフォニーホールに移ってしまった今、このホールの命運も尽きた感がある。ちょっとペシミスティックかなあ。

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