広上淳一/関西フィル定期のショスタコーヴィチ ~ いっそう蒸し暑くて
2005/6/24

気温30℃を超える日が続く大阪、梅雨時の蒸し暑さを吹き飛ばす快演を期待したが、なんだか不快指数も上昇するようなコンサートだった。

ショスタコーヴィチ:交響詩「十月革命」作品131
 チャイコフスキー:ピアノ協奏曲第1番変ロ短調作品23
 ショスタコーヴィチ:交響曲第12番ニ短調作品112「1917年」

ショスタコーヴィチに挟まれたチャイコフスキーのコンチェルト、正直言って、早く終わってくれないかなあと思いながら聴いていた。これでアンコールなんてあったらたまらないと、拍手もそこそこに休憩一番乗り。

プログラムによれば、ピアノの田村響という人は1986年生まれとのことなので、高校を卒業したばかり。いろいろなコンクールでの入賞歴や国内オーケストラとの共演もあるようだ。

このジャンルを聴くことは少ないので細かなことは判らないが、ピアノはきっと上手なんだろう。ダイナミックな音も出るし、指もよく動いている感じ。ただ、惜しむらくは、いや、決定的に、音楽的ではない。歌ごころがない。現在、彼は大学に行っているのか、それともプロの演奏家になっているのか判然としないが、後者だとすれば、ちょっと今後は厳しそうだ。ピアノ奏者であっても音楽家ではない。音に対する慈しみというものが感じられない。若い人だから、音楽だけじゃなく、いろんなことを勉強してほしい気がする。そのうえで、音楽に生きたいというなら、きっと違う演奏が生まれてくるのだと思う。

昨年、広上淳一氏はソリストに米元響子という若いヴァイオリニストを迎え、京都市交響楽団の8月(!)定期で同じくチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を伴奏していたが、あれはよかった。この人はコンチェルトのバックでは見るべきものがある(残念ながら、歌の場合はダメだが)。

今日も同様に、第1・第3楽章ではオーケストラのサポート、表情付けが味わいの薄いピアノを救っていた。ただ第2楽章は冒頭のフルートソロからこけてしまって、もう音楽の体をなさず。全く音楽として流れない悲惨な状況だった。

まだまだ春秋に富むソリストだから、一度だけの印象で判断するのはいかがかと思うものの、栴檀は双葉より芳しという言葉もあるし、なんとも難しいところ。少なくともプロオーケストラの定期演奏会に登場するレベルではないと私は思ったのたが、けっこう拍手もあったから、私とは逆に"いい"と感じた人も多かったのかも…

京都のコンサートでも交響詩「十月革命」を採り上げていましたので、広上氏のお気に入りなんだろうか。ショスタコーヴィチの作品では出来の悪い部類の曲だ。京都のときのほうが、まだ演奏自体の魅力があったように思うが、今回はつまらないなあという印象。

ショスタコーヴィチ目当てで行ったコンサートですが、あまりにチャイコフスキーのダメージが大きく、後半も集中できなかった。
 その休憩後の交響曲第12番。三曲の中で随一、力のこもった演奏だった。そう、その力がこもったところが問題でもある。とにかく、やかましい。

第1楽章、第3楽章から第4楽章へと、音量のピークが長く持続する場面がやたらに多い。もうこれ以上の大きな音、強い音が出ないのに、これでもか、これでもかと畳みかけるのだが、如何せん、もうすでに目盛りはピークを指しているので限界。その結果、音楽が単調に感じられる時間が長くなる。
 スコアが手許にないので、f、ff、fff、ffff、さらにその上があるのかどうか確認できないが、渾身の最強奏を延々と続けられると、いささか耳に堪える。

もともと、ショスタコーヴィチがそのようなグロテスクさをこの交響曲で表現しようと考えていたのだとすれば、広上氏は作曲家の意図に忠実な再現を果たしたと言える。随所で、「もうええ、もうええ」という感じだったから。そのあたりになると、音楽だけの議論では済まないのが、ショスタコーヴィチの微妙なところだ。

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