ボッセ/大阪フィル@いずみホール ~ そろそろ夏バテ、夏休み?
2005/7/15

ちょっと感想を書くのが辛いコンサートになった。必死で探そうとしても、いいところが正直見つからない。新しい音楽監督を迎えたときから、足繁くこのオーケストラの公演に通っているが、新生大フィル、今夜の演奏は私の印象ではワースト。

午前中に喉の違和感があり、夏風邪かと、あわてて葛根湯を服用、そんな体調のせいかと思ったら、至って元気な隣席の友人も憤懣やるかたない様子、やっぱり問題の多い演奏だったか。

バッハ:管弦楽組曲第3番ニ長調
 モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲第5番イ長調K219「トルコ風」
 ハイドン:交響曲第101番ニ長調「時計」
   指揮:ゲルハルト・ボッセ
   ヴァイオリン:ロバート・ダヴィドヴィッチ

一年前の定期演奏会での客演予定が病気キャンセルとなり、ボッセ氏が捲土重来を期した演目が冒頭のバッハ。あの定期演奏会はボッセ氏より2歳年上のヘルムート・ヴィンシャーマン氏がピンチヒッターで予定の管弦楽組曲全曲を演奏した。

さて、その因縁のバッハ。残念ながら、オーケストラのバランスがとても悪い。トランペットの音が完全に浮いてしまっている。響きの調和が感じられない。他の管楽器のギクシャク感が拭えない。これが進境著しい大阪フィル、しかも小編成の精鋭メンバー?なんで?ひとことで言うなら雑な演奏。いったい誰の責任?

それに輪をかけたのがモーツァルト。これには、がっかりと言うだけでなく、この二年で驚異的にレベルアップしてきたオーケストラの今後さえ心配になった。
 ソロのロバート・ダヴィドヴィッチ氏は首席コンサートマスターだ。前回この人がソロを弾いたバーンスタインの「セレナード」は印象の薄いものでしたが、今回は存在感に欠けると言うよりも、氏の音楽性への疑問さえ生起させるような演奏だった。
 第一楽章のソロ・ヴァイオリンが入ってくるところ、本当に音楽がストップしてしまうのではないかと思ったテンポの違和感。何、これ。
 ソリストとコンサート・マスターでは要求される資質が全く違うとは思うし、私もこれまでコンサート・マスターがソリストとなったコンチェルトでの名演など聴いたことがないのだが、ちょっと今回はひどい。ダヴィドヴィッチ氏のソロには音楽の流れが全く感じられないし、作品全体を見通した構成感が希薄だ。部分的には美しい音を奏でるところはあっても、そんなところはやけに甘くなって一時代前の演奏スタイルを思わせる。それは好みの問題としても、音程の甘さはいただけない。二流の歌い手に散見される音域による音色と音量の落差と同様のものが氏のヴァイオリンでも聞かれる。

コンサートマスターとしてのダヴィドヴィッチ氏の技倆や指導力は見るべきものがあるのかも知れないが、これで二回目、ソリストとしての失望を経験すると不安が。今日はお休みだった客演コンサートマスターの長原幸太氏との差が大きすぎるように思う。
 バックのオーケストラもホルンは転けっぱなし、他のパートもミスを連発、ちょっと、どうなってるの。酷暑が続く大阪で早くも夏バテか、緊張感が緩んでしまっている。

休憩時間で帰った人もいたようで、ともだちと二人、出てもいいかと思ったが、こんな日に限って21:30にレストランの予約を入れている。ということで最後までおつきあいしたが、後半のハイドンも数年前の大阪フィルに戻ったような粗い演奏だった。
 響きは濁りがち、端々がきっちりと合わない居心地のわるさ、音量のコントロールのぞんざいさ、前音楽監督の晩年に私が嫌悪していたオーケストラのベーシックなところでの質の悪さが蘇った感じ。ほんの一週間前の客演指揮者(クリスチャン・ヤルヴィ)のときと同じオーケストラとは思えない。

こんなことを書くと問題かも知れないが、高齢の指揮者特有のことかなという気もる。加齢による聴覚の衰えに起因するのではと。指揮者の耳の代わりをする副指揮者が事前に整えておくか、優秀なコンサートマスターが座っておれば事態は違うのだろうが、今回はそのいずれも叶わずということだったのか、それとも、練習時間が充分でなかったのか。

大阪在住のボッセ氏がこのオーケストラの指揮台に立つのは、二度のキャンセルの後、三度目にして初めて実現したこと。しかし、演奏内容は三度目の正直と言うにはほど遠いものだった。当夜の出来を予見した訳ではないだろうが、いずみホールは5~6割の入りという淋しさ、このあと私は8月末までコンサートに行く予定なし、これで夏休み突入と言うには残念な演奏会だった。

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