「文楽とオペラの夕べ」@いずみホール ~ 天神祭のクロスオーバー
2005/7/25

午後から街中に浴衣姿が目立った。そう、今日は天神祭。 むかし、道頓堀川に面したお店で、船渡御を眺めながら、今のカミサンと食事したことがあるが、久しぶりにそのカミサンと出かけたのが、いずみホールでの一風変わった催し。

これは、"舞台芸術・芸能見本市2005大阪"の前夜祭という位置づけのようだ。このイベントは、いずみホールのあるOBP(大阪ビジネスパーク)一帯で行われる各種展示やシンポジウムやミニ公演の総称で、今日もらったパンフレットでは、今ひとつコアとなるものが存在しない感じもする。まあ、大阪21世紀協会という役所のようなところが企画するので、一 般受けするようなものにはなりにくいのだろう。

パンフレットには前夜祭とだけしか書かれていない「文楽とオペラの夕べ」が、ひょっとしたらメインイヴェントかも。入場無料(但し事前申込)ということで、目ざとく見つけ往復はがきを出さない限り鑑賞できないというのもお役所風だ。

文楽側の出演者はなかなかの顔ぶれ。
   太夫:豊竹咲甫大夫
   三味線:鶴澤清介、鶴澤清丈
   人形遣い:桐竹勘十郎、吉田蓑二郎、桐竹紋臣
 オペラ側は私の知らない人ばかり。
   ソプラノ:増田いずみ
   ピアノ:塩入俊哉(一部アコーディオンも)
   ウッドベース:竹下欣伸(「あくび」と勘違いしそう)

それで、プログラムは次のような内容になっている。
   <第1部>
   ヘンデル:「セルセ」より「オンブラ・マイ・フ」
   バッハ:「G線上のアリア」(歌詞付き)
   シューベルト:「アヴェ・マリア」
   ガーシュイン:「ポーギーとベス」より「サマータイム」
   プッチーニ:「トゥーランドット」より「誰も寝てはなら ぬ」
   プッチーニ:「ジャンニ・スキッキ」より「私のお父さ ん」
   <第2部>
   文楽側の出演者によるトーク
   「艶容女舞衣」酒屋の段より
   プッチーニ:「蝶々夫人」より「蝶々さんの死」

いずみホールのホワイエで出演者のCDが販売されていて、手にとって見たら、どこかで見たことがあるジャケットだった。雑誌の広告記事だったかな。この人が増田いずみさんか。もともとクラシック声楽畑の人らしいが、オペラアリアをポップスのテイストで歌っている人のようだ。

オリジナルを知っている者にとっては、どうしてもそのイメージがあるので、なんだか中途半端、易きに流れたという印象は拭えない。ボサノヴァ風の「アヴェ・マリア」のアレンジや、「私のお父さん」の細かいヴァリアンテなど、面白さを感じるところもありますが、やはり、ポップスを聴く人にオペラの世界を紹介するという位置づけになるだろう。何もわざわざ、こういう歌を聴きたいとも思わないなあ。

人形がよく見えるようにと、前のほうの座席と引き換えたのが裏目に出て、直接音とスピーカーを通した音が妙に重なり、終始違和感があった。いずみホールでPA(public address)というかSR(sound reinforcement)ということもなかろうと思うのだが。

ポップス系の歌手がオペラアリアを歌うことが、最近はコマーシャルベースに乗って盛んになっている。少し前ならアンドレア・ボッチェッリ、最近ではラッセル・ワトソンなど、声の良し悪しは措いても私にはただの間延びした歌としか感じられない。これまたちょっと古いフィリッパ・ジョルダーノに至っては醜悪としか感じられなかった。とんでもないものを聴いてしまったというのが、共通した印象だ。それらと比較するなら、増田いずみさんの歌は遙かにまともだし、個性的だ。
 こういう、境界線上のパフォーマンス、どちらのサイドに立って聴くかによって、かなり評価が違うと思うし、下手をすれば鵺(ぬえ)的なものになって、どちらからも見向きもされない危険をはらんでいる。

後半の文楽のほうが楽しめた。
 トークに登場した三味線の鶴澤清介、人形の桐竹勘十郎は、まだまだ若手といっても50代だから、伝統芸能の世界はすごい。
 鶴澤清介さんの三味線は聴いたことがあっても、話すのを聞くのは初めて。この人のしゃべりは独特の味があって面白いし、間の良さはさすが。会場の2/3は文楽サイドのお客だったが、笑わせて聞かせて舞台に観客を引 き込む力は大したもの。

「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」は国立文楽劇場 (大阪日本橋)の本公演でも最近観ているが、そのときは格安の幕見席だったから、人形の動きよりも浄瑠璃のほうが関心の的だった。今日は有名なお園のくどきのサワリを上演。さすが、舞台近くで見ると人形の動きの繊細さがよく判る。こりゃたまには高い席で見なくっちゃ。

国立文楽劇場では上演中に観客の出入りがあり気が散ることが多いが、今日はコンサートホールなので、それは、ない。今のオペラ上演では当たり前のこと、伝統芸能も、よいことは学ぶべきだろう。

なお、本日の太夫は豊竹咲甫大夫。まだ30そこそこの本当の 若手、いい声で、これからの人かな。増田いずみさんと半年前に結婚ということだった。なあんだ、それでクロスオーバーなのか。

さて、文楽とオペラのコラボレーションということなら、これしか考えられないだろう「蝶々夫人」、しかも「蝶々さんの死」の場面。プログラム前半のオペラアリアの演奏者と人形遣いの共演で、全然違和感がない。

初め、増田さんが「ある晴れた日に」の一部を歌う間は人形は静止、そのあとナレーションに移り、日本語で子供との別離から死の場面への台詞、続いて同じ部分の原語での歌唱と人形の所作となる。子供を抱くところや、短刀を取り出し自刃するところは、文楽の舞台ではいくらも例のあることだから、バックが浄瑠璃でなくてソプラノの歌唱であっても、見事に形になる。

こうして観ていると、人形に演じさせることで、おどろおどろしさを緩和することが可能だ。例えば、「サロメ」のヨカナーンの生首なんて、リアリスティックだとげんなりするが、「一谷嫩軍記(いちのたにふたば ぐんき)」熊谷陣屋の段など、文楽では首実検のシーンは定番だし、「シチリアの晩鐘」の幕切れの大虐殺のシーンなど、人形なら首を飛ばすような演出も可能だろう。

また、これも文楽の定番の蔭腹のシーン、瀕死の状態で延々と心情吐露が続くのはオペラにもよくあること。「ドン・カルロ」のロドリーゴの死の場面など、そのまま太夫が語ってもおかしくないなあ。

とかなんとか、いろいろ想像しつつ文楽とオペラのクロスオーバーを観る。公演がはねて、外に出たら大川の方角で多数の花火が上がっていた。天神祭のクライマックス。

* * *

(2005/7/30追記)

文楽とオペラとのクロスオーバーということで、上記のコメントを試しに文楽系の掲示板にも投稿したら、書き込み後しばらくして、あっさり削除されてしまった。何か問題でもあったのかしら。

上記には、クラシックのコンサートと比較して、国立文楽劇場(大阪)における一部のファンのマナーの悪さについて触れた部分があるので、そのあたりなのかなあと想像する。フライング・ブラアヴォや、演奏中の飴の皮むき音に対する批判なんて、クラシック系の掲示板では日常茶飯事、これはファンのカルチュアの違いかな。

誹謗中傷ならいざ知らず、私の書いたものは事実に基づく記述だから、理不尽な削除に抗議してもいいのですが、下手をすればフレーミングの愚に至るだけだし、そのままにした。掲示板主宰者の感性(あるいは見識)の差ということかも。

現在、文楽は財団法人文楽協会というひとつの組織で運営されており、舞台を務める太夫、三味線、人形遣いのいわゆる三業は伎芸員という身分で、この組織に属している。二世、三世の人も多いが、基本的に伎芸員への門戸は開かれており、世襲ではなくあくまで実力本位だ。

オペラで言うなら、国立歌劇場の専属スタッフというような感じだろうか。もっとも、文楽には単一の組織しかないので、これもオペラで言うなら、二期会しかないというような感じ。藤原歌劇団はともかく、来日公演がないのは当たり前だけど。

歴史的には、文楽が隆盛を極めたころ、名作が次々と世に出たころには、竹本座と豊竹座が道頓堀の東西で覇を競っていた。戦後にも松竹の傘下から会社側・組合側に組織分裂という時代を経て、官の庇護の下に組織一本化に至った訳だ。

伝統芸能の継承ということでは、文楽協会は大きな役割を担っているということになるが、こと芸術に関し唯一無二の組織というのは何かと問題を孕みがちだ。長い目で見たとき、舞台芸術としての活力を維持し続けることかできるか心配なところでもある。
 もっとも、最近では観客も増加傾向で、キャパシティが小さく日数も少ない東京公演はチケット入手も大変らしい。

大阪育ちのくせに私が文楽を初めて見たのは2003年の11月7日、ごく最近のこと。何故この日を覚えているかと言うと、文楽がユネスコ世界遺産となったその日だったから。
 >以来、何度も足を運んでいるが、丸々一日を要する名作の通し狂言など、ワーグナーの大作にも匹敵するのではと思う一方で、同じく過去の芸術と言われかねない文楽とオペラ、舞台もファンも含めてみた場合、その活力に差を感じるのも事実だ。

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