首都オペラ「運命の力」 ~ 4度目の正直、ならず
2005/9/3

このオペラ、上演頻度が極めて低い割に、私は4度目になる。1989年の二期会公演が最初で、1992年に藤原歌劇団公演、近いところでは2000年のサンクトペテルブルク・マリインスキー劇場のびわ湖ホールでの公演というところ。

今回、週末の東京出張がなければパスしていたところだが、前述の3公演を悉く聴き逃した友達が、わざわざ大阪から出向くこともあり、付き合うことにした。何しろ、かの二期会公演、私と別の日のチケットを確保し大阪から遠征のつもりでいたのはいいが、"大喪の礼"で公演自体がキャンセルになったといういわく付き。

さて、首都オペラ、私は1989年の旗揚げ公演の「オテロ」以来となる。あのときはアマチュア・オーケストラだったと思うが、今回は下野竜也指揮の神奈川フィルがピットに入るので、その点では期待できそう。この時期のヴェルディ作品にもなると、元気のいいだけのアマチュア・オーケストラでは手に余る。

予想どおり、多少の山谷はあっても全曲通して安心できるピットの出来映えで、丁寧な音づくりをしていたように思う。下野さんはかなり細部に拘る人のようで、対旋律を重視して、響きの複合、響きの厚さを意識しているようだ。声をかき消すところも見受けたが、出しゃばりすぎというほどでもない。この程度なら、まあ許せるかな。

奇異に感じたのは、序曲が二度も演奏されたこと。冒頭は、(たぶん)ペテルブルグ原典版か。聴き慣れた大序曲に比べると、音も薄いし短くて尻切れのような感がある、いいほうに解釈すれば、スムースに第1幕への導入となる序曲が演奏された。そして、第2幕の前に、ミラノ改訂版のお馴染みの序曲、第1幕と第2幕の間には、物語でもかなりの時間の経過があるので、もう一回、別の序曲を挿入して仕切り直しということなのだろうか。ただプロローグ付きの3幕ではなく、あくまでも4幕のオペラなので、ちょっと疑問なところ。

今回の上演自体は一般的なミラノ改訂版に拠っており、「トスカ」のように主役3人全員死亡ではなく、ドン・アルヴァーロひとりは生き残るかたちの改訂版だったから、最初はとても戸惑った。
 ダブル序曲はどういう意図なのか。たんにサービスなのか。下野氏の演奏で「フィデリオ」序曲を聴いたことがあるから、あのオペラの顰みに倣ったのだろうか。

オーケストラのことが長くなったが、この日の歌い手に関して語ることは多くない。今回がオペラデビューとなるらしいレオノーラ役の藤井直美さんの後半の歌に見るべきものがあったぐらいか。彼女とて、最初は緊張していたのか、第1幕など、おとなし過ぎる歌で、この役が求めるスピントの表現に至らず、声のドラマが伝わらない。終幕のアリアでは、音の跳躍のスムースさは今ひとつながらも一皮むけたような歌になり、これは本日の全ての歌のなかでのベストかな。本人も達成感があったのでしょう。カーテンコールでは、彼女の涙ぐんでいる姿があった。

グアルディアーノ神父を歌った山口俊彦さんは安定した歌唱で聴かせたが、このオペラの推進力になるべき二人、ドン・アルヴァーロの大森誠さん、ドン・カルロの工藤博さん、頑張っているのはよく判るが、こんな歌じゃ、ちっともオペラを楽しめない。もはや日本人のオペラ上演、ましてや首都でのオペラ上演は、「みんな、よく頑張ったね」で済むような段階、レベルではないはず。
 無事歌えるかどうかを、客席でのべつ肩に力を入れて聴いていたのでは、楽しむどころじゃない。とても疲れる。声を張るところでは声帯が緊縮してしまっているのか、思うような声が出ないので力ずくの歌唱になり、それがますます歌の美感を損ねる。悪循環としか言いようがない。
 大好きなテノールのアリア、テノールとバリトンの二つのデュエット、このオペラの聴きどころが無惨な姿になった。ジュセッペ・ジャコミーニとレナート・ブルゾンのときの丁々発止を求めるのは無理としても、せめてもう少し…

このオペラでは、諧謔的な人物、プレチオシッラ(石野和佳子)、フラ・メリトーネ(吉原裕作)、トラブーコ(宮崎義昭)などが登場するシーンが多く用意されており、ドラマの展開には直接関係しないものの、暗くて深刻な主役たちと明暗の対置がされている。ここの部分は極めて重要で、うまく組み込まれないと散漫きわまりないオペラになってしまう。この公演、これらの役を演じた人たちの歌に存在感がなく、オペラの冗長さを感じさせる結果になった。

田尾下哲演出はチェスをモチーフにしたらしく、最初主役たちの衣装の奇天烈さにあきれたが、慣れというものは恐ろしいもので、「魔笛」だと思えばいいやと。装置はシンプル、ちょっと動かしすぎの嫌いはあったが、まあまあかな。

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