井上道義/京都市交響楽団定期演奏会 ~ まだ、そこにある壁
2006/1/20

東京に比べたらただでさえ少ない京阪神地区での演奏会、何も同じ日に定期演奏会でショスタコーヴィチを採り上げなくてもいいと思うんだけど(もう一方は広上淳一/大阪シンフォニカー定期の第1交響曲)。

別の日ならどちらも行くところだが、今回、私はあまり迷わず遠い方の京都を選んだ。この第11交響曲「1905年」は、以前、東京でラザレフ/日本フィルのとてつもない演奏を聴いているので この曲を井上/京都市響がどう料理するのか楽しみだった。

終演後の熱狂が示すように、京都市響としても快心の演奏であったと思う。耳につくような各パートの破綻はない、アンサンブルも上々だ。盛り上がりも充分、この長大な曲を見事に再現しているとは思うのだが。演奏がしっかりしたものだったたけに、私は余計に足りないものが際だった感じがした。

何よりも、一昨年にこのオーケストラで広上淳一氏が指揮した第6交響曲で感じたと同じ、ダイナミックレンジの狭さだ。音量のピークにどうしても限界が見えてしまって、一定以上には行かないもどかしさがつきまとう。メーターが振り切ってしまった限界の音が鳴る時間があまりに長過ぎて、逆に大音量の平板さが前に出てしまう。さらに一段、二段上のパワーがあれば、もっとメリハリも付こうというものだが…
 これが只今現在のこのオーケストラの(あるいは客演指揮者の)限界かも知れない。

大きな音を出すのが苦しいなら、もっと小さな音を出せば相対的なダイナミックレンジは確保できるのは理の当然、ところが、そういうアプローチをするでもない。暴力的な第2楽章のあと、第3楽章にヴィオラで演奏される嘆きの歌、これがエッと思うほどの大きな音だったので、びっくりしてしまった。楽譜ではpと記載されているのかと思うが、その後にミュート付で繰り返されるところと差を感じなかった。ラザレフの演奏では凄まじい爆発的な弱音(変な形容だが、この表現がふさわしい)で、サントリーホールの客席が見る間に凍りつく衝撃があった。

ダイナミクスを単なる効果や演出と片付けてしまうことも可能だが、そうでもないところもあるから音楽は不思議だ。
 この曲には一応プログラムがあり、それを演奏で全て表出できるとは思わないが、そもそも井上/京都市響にはそんな関心はないように感じた。楽譜に書かれた音の再現を専一とする純器楽的アプローチを否定するつもりはないが、そんな中でも自ずと作曲家が、演奏家が表現したいエモーショナルなものは顕れるのに。この日のショスタコーヴィチにはそれが希薄だった。

アナスタシア・チェボタリョーワをソリストに迎えたプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番、これも昨年ヒラリー・ハーンと大植英次/大阪フィルで瞠目すべき演奏を聴いているので、だいぶ分が悪い。

鮮やかな白と黒のドレスで現れたほとんど国内のヴァイオリニストみたいなこの人、美音なんだがいまいちシャープさがないなあ。作曲家のモダニズム時代の作品なのに。なんだか演奏スタイルに違和感を感じてしまう。

結局、終わってみれば、一番楽しめたのは冒頭のシュニトケ作品だった。「モーツ=アルト・ア・ラ・ハイドン」なんて人を喰ったタイトルですが、パフォーマンスも破天荒。真っ暗な舞台で演奏が始まったと思うと、突然ライトが当たって指揮者がびっくり、思わずかぶっていたカツラが落ちて、と思ったらロシア人がよくかぶっている毛皮の帽子だった。
 ソロ・ヴァイオリンが2本、コントラバスを中央に、ヴァイオリン3・ヴィオラ1・チェロ1のアンサンブルを左右に配し、計13名。指揮者との掛け合い、マーチングバンドさながらの舞台上の動き、観て聴いて楽しむ作品というところだ。

こういう曲になると井上さんの天性のキャラクターが遺憾なく発揮される。アクション、間の取り方、役者のように自然だ。オーケストラのメンバーはどことなく演技にぎこちないところはあるけど、色とりどりの私服(?)でけっこう頑張っていたと思う。指揮者は暗譜、いちおう譜面台はあるけど、暗くなったり動いたりで、奏者も暗譜は必須だろうなあ。

さて、今年はモーツァルトだけじゃなく、ショスタコーヴィチも記念の年、どちらも聴く機会が増えそうだ。

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