シュトゥットガルト歌劇場「魔笛」 ~ 演出だけなら、ちと高いか
2006/2/18

学生時代の友達が昨年からハイデルベルク駐在で単身赴任、それが決まったとき、「いいなあ、ハイデルベルクからなら乗換なしでミュンヘン、ベルリン、ハンブルク、バーゼルあたりまで列車で移動できるはず。どこも東京・大阪ぐらいの距離感か。いや、もうちょっとあるかな。週末には国境を越えてミラノ、ブリュッセル、アムステルダム、パリ。そして、ほど近いシュトゥットガルトなんて、演出の斬新さでは世界No.1のオペラハウスがあるので、私だったら仕事のあと日参しそうです」てなことをメールした覚えがあります。

そのシュトゥットガルト歌劇場の来日公演を聴いてきた。これはやはり、聴いてきたと言うより、観てきたと言うほうが適切な公演だ。

ともかく、観ていて面白いので、たいがい冗長なモーツァルトのオペラなのに飽きさせない、アイディア満載のてんこ盛り状態。まあ、全体を貫くコンセプトがあるかと言われるとかなり疑問だが、何でもありの「魔笛」というオペラならこんなのだってOKかな。新国立劇場のキース・ウォーナーのポップな「指輪」との近親性も感じた。

ザラストロ:アッティラ・ユン
 夜の女王:コルネリア・ゲッツ
 タミーノ:ヨハン・ヴァイゲル
 パミーナ:アレクサンドラ・ラインプレヒト
 パパゲーノ:フローリアン・ベッシュ
 パパゲーナ:イレーナ・ベスパロヴァイテ
 モノスタートス:マルクス・ブルーチャ
 指揮:ローター・ツァグロゼク
 合唱指揮:ミヒャエル・アルバー
 シュトゥットガルト州立管弦楽団
 シュトゥットガルト歌劇場合唱団
 演出:ペーター・コンヴィチュニー

この「魔笛」、既成の権威や秩序にクソ喰らえというメッセージはあるのだが、それが自己の存在を賭けたような過激、ある意味では真摯な形で出るのではなく、表面的には体制に順応しながらも白けきっている若い世代の姿が随所にシニカルな形で現れていたように思う。それが、ひょっとしてこの演出のコンセプトなのかも知れないが。

大団円のめでたしめでたしのコーラスの場面、パパゲーノのワンマンショーから続いて舞台に置かれた移動式の観客席の装置、出番を終えたパパゲーノが群衆の一人としてだらけた格好で腰掛けている。ポップコーンのバケツからつまみ食いしながら、ときどきコーラスに合わせて、断片的に歌っていた。「あーあ、あほくさ」とでも言いたげに。私は、このシーンが一番印象に残った。

タミーノ、パミーナのカップルについても上記のようなコンセプトの延長として、演出は跳ね返り的な性格を表そうとしているようだ。親やその世代への反抗者としての描き方は面白いものの、その演出とモーツァルトの本来の音楽とは、やはり木に竹を接いだようになってしまう。テキストと音楽を遵守せざるを得ない演出の限界か。

二人が試練を受ける場面、舞台上のプロジェクターに新生児から棺桶までの人の一生が映像でエンドレスに繰り返され、彼らはそれを見ているだけなのだが、これも、実人生の体験や感動から遊離してしまったヴァーチャル世代を象徴しているのだろうか。

色々とあげつらっていけば、沢山のメッセージやパロディが満載の状態で、きりがないし、それはそれで面白いことだが、やはりこれは音楽劇、演奏のことに話を移すと…

幕が開くと、何をやってくれるのかの期待で、目もぱっちりになったが、序曲のぬるくて今ひとつのオーケストラの響きには、ちょっと先行きが心配になる。その後は、気にならなかったけど。

名前を知った演奏者は一人もいない。図抜けた人はいないにしても、この劇場で上演を繰り返しているアンサンブルとして立派な水準にあることは確かだ。パパゲーノのフローリアン・ベッシュは、このオペラ、この演出でのキーマンで、歌、芝居とも大熱演。他に一人挙げるとすればパミーナ役のアレクサンドラ・ラインプレヒト。この演出での跳ねっ返り的な性格付けにぴったりのややスピントがかった声で、その適否はともかく、この役の一般的なイメージとはかなり異なる歌と演技だった。

少し早くオーチャードホールに着いたので、眠気防止に一杯と、近くのタリーズコーヒーに立ち寄った。店の奥のガス室に入ると、ドイツ人男女が10人ちかく。裏方の人たちかと思ったが、いちおう、「歌手なの?」と聞いたら、「さっき出ていったあいつはモノスタトスさ、オレはコーラス。今日が最後で、明日はチューリッヒ行きの飛行機で…」とかなんとか。

ええっ、開演30分前に外の喫茶店、しかも喫煙室とは、恐れ入った。幕が上がって、普通の格好で登場した彼らを見て、ああ、これならメイクの時間もかからないと納得。

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