中嶋彰子ソプラノリサイタル@イシハラホール ~ アリアの壁
2006/5/16

中嶋彰子さんが新国立劇場の「ウェルテル」に脇役で登場したのを聴いて以来かと思う。その後、彼女は何度か初台の舞台に立っているのだが、私は東京を離れていて聴く機会がなかった。

たぶんオフィスから一番近いコンサートホールがイシハラホールなのだが、ここは初めて。客席250ほどの贅沢な会場だ。少し空席があったので、正味200人の聴衆ということか。やはり贅沢。

ソプラノ:中嶋彰子 ピアノ:ニルス・ムース
 モーツァルト:春へのあこがれ K.596 (独)
 モーツァルト:ラウラに寄せる夕べの思い K.523 (独)
 モーツァルト:ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき K.520 (独)
 モーツァルト:静けさはほほえみ K.152 (伊)
 モーツァルト:アダージョ ロ短調 K.540 (ピアノソロ)
 モーツァルト:小さなジグ K.574 (ピアノソロ)
 モーツァルト:「フィガロの結婚」より“愛の歓びよ早く来い” (伊)
 モーツァルト:「後宮からの誘拐」より
        “あなたから離れてから、悲しみが私の運命となりました” (独)
 モーツァルト:「ドン・ジョヴァンニ」より“私の名誉を奪おうとした者” (伊)
 カタラーニ:グリーンランドの歌 (仏)
 カタラーニ:口づけも無く (伊)
 グリーグ:ペールギュントから3つの歌より“ソルヴェーグの歌”
 グリーグ:ヴィニエの詩による12の歌より“春”
 プッチーニ:「ラ・ボエーム」より
        ムゼッタのワルツ“私が町を歩くとき” (伊)
 J.シュトラウスII:「踊り子、ファニー・エルスラー」より
        “シーベリングのリラの花” (独)
 J.シュトラウスII:「ヴェネツィアの一夜」より“ほろ酔い気分” (独)
 レハール:喜歌劇「ロシアの皇太子」より“だれかが来るでしょう” (独)
 ジーツィンスキー:ウィーン、わが夢の街 (独)

ちょっと難しい感想になりそうだ。小さなホールだからという訳ではなくて、立派な声が鳴り響く。「並のソプラノとはモノが違うわね」というような声も休憩時間に耳に入る。でもね。はっきり言って、前半のモーツァルトは期待はずれもいいとこ。

最初の3曲は素敵だった。曲想の表現、言葉の丁寧さ、フレージングに込めたニュアンス。ところが、その後がいけない、一巡目は完璧に押さえたのに、4回になった途端に乱打されノックアウトされる駆け出し投手のよう。ドイツ語からイタリア語に変わった途端だ。まさに、ワインドアップからセットポジションになったら突然という感じだった。

表面的には大して変わりがないように聞こえるのだが、何よりもまず、ドイツ語であんなにきちんと歌えていたのに、イタリア語になったらどよーんとした音になってしまった。アルプスの北は快晴で、南は梅雨かな。ルネ・フレミングのイタリア語歌唱を聴くような。ぼやーんとした発音の気持ち悪さが気になって気になって。それでも、ジョーン・サザランドのように、声の威力で、テクニックでねじ伏せてしまう力量があれば文句も出ないのだが、如何せん、ドンナ・アンナのアリアなど、声はガンガン飛んでくるのに、単調極まりない歌になってしまって聴くのが辛い。スザンナとコンスタンツェについても同様だ。

見かけシンプルなモーツァルトのアリアに、どれだけのニュアンスを込められるか、表現を研ぎ澄ますことができるか、腕の見せ所なのに、位負けしてしまっている印象が否めない。

ソングというか、プログラムの中にもあるシャンソンという世界での中嶋さんの表現には舌を巻くところがあるのに、どうしてアリアになるとダメなんだろう。この二つのジャンル、別の次元の表現力が要求されるのかも知れない。

それを端的に感じたのは、後半の冒頭のカタラーニだ。この曲はフランス語で歌われたが、メインの部分は「ワリー」の有名なアリアだ。このシャンソンが原曲で、それをオペラのアリアに転用したのだそうだ。この曲での中嶋さんの歌唱は素晴らしかったと思う。これは、アリアの名旋律の前後に別の曲想の部分がくっついた曲で、あのアリアよりもずいぶん長いような気がした。

もともと、一曲の中にサビの部分もあれば、その他の部分もあり、そうした適度のバランスや変化が予め組み込まれているような歌と、サビの部分を中心に切り取って、その中で歌い手が自分の能力とセンスを総動員してかからなければ聴き手を感動させることができないアリア、その違い、その差が中嶋彰子という再現者を通じて知らされたように思う。「アリアの壁」というヘンなタイトルを付けた所以。

後半プログラムのオペレッタのナンバーは、どれも見事な出来映え、この人がフォルクスオパーで活躍したというのも頷ける。驚くほどのドイツ語のシャープさ(この半分でもイタリア語を身につけたらなあ)、それに表現の自在さ。何度も舞台で演じて彼女の血肉となっているのだと思う。オペラアリアとのあまりのギャップ。なんで…

やはり、二つの世界の間には、一線があるような気がする。中嶋さんがオペラに向かうなら、いったんはフォルクスオパーの成功体験を捨て去ったほうがいいのではないかと思う。でも、何も苦労してそんなことをしなくても、これだけの歌と(たぶん)芝居なら、オペレッタの世界のスターでいいんじゃないかな。

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