新国立劇場「ドン・カルロ」 ~ イタリアからドイツへ
2006/9/10

東京には何度も出かけているのに、初台の劇場にはしばらく御無沙汰していて、ほぼ2年ぶり。劇場の雰囲気はちょっと変わった。屋内禁煙になったのは時代の趨勢としても、入口でのチラシ袋の配布がなくなって、シルクハット、燕尾服のお兄さんたちがお出迎えというのは、「なんだ、こりゃ」という感じ。

9月に入ったばかり、残暑のマチネ、あんな格好で並ばれると、お仕事とは言えお気の毒。異様に湿度の高かった東京、着ぐるみのバイトよりはマシかも知れないけど…

ヴェルディ:歌劇「ドン・カルロ」
 ヴィタリ・コワリョフ(フィリッポ二世)
 ミロスラフ・ドヴォルスキー(ドン・カルロ)
 マーティン・ガントナー(ロドリーゴ)
 大村博美(エリザベッタ)
 マルゴルツァータ・ヴァレヴスカ(エボリ公女)
 妻屋秀和(宗教裁判長)
 長谷川顯(修道士)
 背戸裕子(テバルド)
 樋口達哉(レルマ伯爵/王室の布告者)
 幸田浩子(天よりの声)
 ミゲル・ゴメス=マルティネス(指揮)
 東京フィルハーモニー交響楽団
 新国立劇場合唱団
 マルコ・アルトゥーロ・マレッリ(演出・美術)

5年前に新国立劇場で初めて「ドン・カルロ」を採り上げたときには、当時近くに住んでいたということもあるが、三度観ている。と言うか、これは私の偏愛するオペラ、ついつい足が向いてしまった訳で。

今回の公演は、そのときと対照的だ。キャストは多国籍で、一人としてイタリア人がいない。前回、チェドリンス、スカンディウッツィ、ファリーナ、ブルゾンと、主要キャストやスタッフをイタリア勢で固めたのに対し、同じヨーロッパでも北に東にシフト、芸術監督が替わればここまで違う。ジーコがオシムに替わったみたいだ。でも、これはこれで、面白い。ネガティブな評価じゃなくて、こういうことが出来るのも日本の劇場だからと言えば言えなくもない。

この「ドン・カルロ」というオペラ、ヴェルディの中ではもっともドイツ的な作品という人もいるらしい。どこがそうなのかよく判らないが、音楽の充実度、ドラマの深みでは最右翼かと思う。したがって、いわゆるイタリア的な声の饗宴でなくても充分楽しめる。「イル・トロヴァトーレ」だとそうはいかないけど…

長谷川さん、妻屋さんはともかくとして、非イタリアの男声主役陣は充実している。冒頭の長谷川さんの修道士(カルロ5世?)のソロのヨタヨタぶりにはにはガックリ来そうになったが、すぐにドン・カルロとロドリーゴの登場で舞台が締まった。長谷川さんも、その後の出番は大過なくこなしたから、あれは何だったんだろう。

カルロとロドリーゴのコンビ、イタリアの声ではないし、真性ベルカントとも距離があるので違和感を感じる向きもあるかも知れないが、なかなか役柄に填っている。年格好も似つかわしい。特に、ロドリーゴは円熟の年齢ではなく、若さを留めた人物でないといけないと勝手に思っているので、これは悪くない。しかも、なかなかの芸達者だ。ドヴォルスキーも安定した歌いぶりで、タイトルロールでありながら、ときに狂言回しの脇役という印象もあるドン・カルロという役柄にしては、充分な存在感があった。

コワリョフのフィリッポ二世も、これまでに聴いた大物たちの歌唱と比べると、まだまだかも知れないが、ちっとも悪くはない。妻屋さんは凄みが感じられずコミカルに見えてしまうので損をしている。歌は悪くないのに。

女声のほうは明暗を分けたという感じ。大村さんのエリザベッタは予想外の素晴らしさ。あまり聴く機会がない関西人としては、ちょっと吃驚。邦人歌手も使わないと、という判断でクレジットされたんじゃないなあ。カルロとのデュエットでは完全に勝っていたし、終幕の長丁場のアリアを弛緩なく聴かせたのには感心しきり。ヴェルディのヒロイン、そしてこの役に必要な声の密度がある。反面、第一幕第二場のフィリッポの逆鱗に触れた友との惜別の歌では、ピアニシモの美しさを聴かせてほしかったのだが…

エボリのヴァレヴスカには不満。何と言っても、最高音の力と美しさがないから、この役の魅力が半減というところ。その点を除けば、口跡の悪さはあるにしても、よく歌っていたと思うだけに残念。

ドイツ的かどうかは別にして、こういう非イタリア的な「ドン・カルロ」を、一度の休憩を挟んで二分割で聴かされると、さすがにずっしりと重いものが残る。それぞれが、ワーグナーの一幕と同じ長さになるわけだから。もっとも、これは演出の意図、続けることでの意味を持たせようとしていることが如実に出ている。

第一幕の第一場から第二場にかけて、カルロが退場せずそのまま残っているし、同様に第二幕へも繋がっていく。時間的には、連続してはいないはずなのに、敢えてドラマの連続性を強調しようという意図が感じられる。虐げられた民とその希望としてのカルロ、そしてロドリーゴ、国家権力と宗教の暴虐の犠牲という側面が、マレッリの演出・美術では強調されているようだ。

第三幕第一場、エボリの強烈なアリアの前、エリザベッタに向かって罪を悔いるシーンで、自ら片眼を潰すという演出を初めて観た。白い胸元に血がしたたり落ちるというのはちょっと視覚的にショッキングだ。続く第二場でも銃撃を受けたロドリーゴの手にはべったりと血糊が、この演出家、そういう趣味なのかしら。

巨大な立方体の各辺の中点を結び、各面と平行する三つの面で分割し、もとの立方体の天井と底に当たる部分を除いた8つのピース、それが主要な舞台装置。つまり、それぞれがL字型のピース、これらが壁になったり、幕の代わりをしたりと、低予算、じゃなかった、使い回しの妙。他の装置としては、燭台に見立てた柱と、フィリッポのベッドぐらい。第二幕第二場の異端者火刑の場で、囚人を縛る梯子と多くの薪の束が使われるのが、道具らしいものが登場する唯一のシーンだ。要するに、音楽とドラマに没入してもらうしかないというメッセージだろう。

普通は舞台裏から、あるいは天井あたりから流れる火刑の場の幕切れの天からの声、これを舞台上に登場させて歌わせるというのはユニーク。幸田浩子さんが歌ったのですが、赤ん坊を抱いた聖母マリアの出で立ち。救いのない地上の救いは、天上ではなく、やはり地上にほしいということなんだろうか。

5年前の「ドン・カルロ」では、歌手に引き比べ、あまりのオーケストラの酷さに、当の新国立劇場はおろか、裏(表)番組の定期演奏会のサントリーホールでも関係者に苦言を呈した記憶があるが、東京フィルハーモニーもずいぶんしっかりした演奏を聴かせていた。閃きを感じることもないけれど、指揮者も余計なことをせずに舞台の邪魔はしていない。この作品なら、それでも充分に真価は伝わる。カーテンコールのピットの中に、大阪フィルでお馴染みだったオーボエの加瀬さんの姿を発見し、ちょっと嬉しく感じた。

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