インバル/東京都響のショスタコーヴィチ「1905年」 ~ 非ネイティブの音楽
2006/11/19

ちょっと用事があって、東京まで。ついでと言っては何だが、めぼしいオペラもない週末なので、ずいぶん久しぶりにサントリーホールへ。このホールは来年に改装予定らしい。確かに、床面などには傷みも目立つ。

ブロッホ:ヴィオラと管弦楽のための組曲(日本初演)
 ショスタコーヴィチ:交響曲第11番ト短調「1905年」作品103
 指揮:エリアフ・インバル
 ヴィオラ:鈴木学

目眩くサウンドの饗宴ではあるものの、以前に聴いたラザレフ/日本フィルの演奏にあったような激しいメッセージ性は随分薄いように感じた。あのときは第3楽章の悲痛なヴィオラの歌が、本当に聞こえないぐらいの弱音で奏でられ、驚愕、戦慄を感じたものだが、今日の演奏では普通のp、まあ、あそこまで極端なメリハリは異常だが、それだけにあれは私の記憶からは消えることのない演奏でもある。

インバル/東京都響の演奏は、緩急の呼吸、ダイナミックスの変化、どれをとっても一級のものではあるが、音楽としての構成感だけでは済まない厄介さがこの第11交響曲にはつきまとう。題材がロシアの歴史上の悲劇だから、当然それに対する思い入れの程度は比較にならないし…

全4楽章が続けて演奏されたが、第1楽章は長い序奏というポジショニングが明確で、続く第2・第3楽章が核心であることをくっきりと示した演奏だったように思う。60分の大交響詩、ラザレフのときに感じた言いようのない重さではなく、華麗さに近いものがあった演奏のように思う。

Pゾーンに座っていたので、打楽器の振動が舞台から伝わってきて腹に響くが、クライマックスの大音響は舞台裏側なので耳を聾するほどではない。そういう点では、このあたりのショスタコーヴィチの曲は後ろで聴くのが正解かも。ここぞと言うところでは、インバル氏のヴォーカル入りなので、あれっ、何の楽器かと思うところもしばしば。

ブロッホは日本初演ということらしいが、ショスタコーヴィチの前座という感じだった。ヴィオラ・ソロの鈴木学さんは熱演だが、作品の魅力としてはいまいち。ショスタコーヴィチとあまり変わらない大オーケストラだけど、作曲家のレベルの違いというか、シンフォニーと組曲じゃ作曲家の真剣度が格段に違うということもあるだろう。何人か横の若者は、すぐに大いびき、恥ずかしながら、私も音は立てないものの、こっくりという場面が何度か。

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